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#現代ファンタジー
るるくらげ
ウマルが、数歩ぶん後ずさってその光景を見ていた。
握ったままだった剣先が震えている。彼の目にあったのは、勝利の手応えではなく、はじめて自分の術式が何をしていたのか見てしまった人間の狼狽だった。
「こんなはずじゃ……」
彼は小さく言った。
「鬼だけを、消すはずだった」
「人の名を削るやり方で、人だけ都合よく残るわけないでしょう」
ロビサは鏡面から目を離さずに答えた。
「あなたは勝ちたかっただけです」
ウマルは反論しかけ、言葉を失った。
否定できない顔だった。
その隙に、ハディジャが立ち上がる。
足元はふらついている。肩も血で濡れている。それでも彼は、自分へまとわりつく巨大な影を見上げ、静かに言った。
「おまえも、ずっと痛かったんだろ」
鬼王の核が、ぴたりと動きを止める。
「でも、もう誰かの名前を食って残るな」
ハディジャは息を吸った。
「返して終われ」
彼が右手をのばす。
剣ではない。掴むための手だ。
百年前の残響が、背後でかすかに揺れた。
アジュマルの気配はもう、上書きするためではなく、見届けるためにそこにあった。若い記録官の面影も、ロビサのそばで静かに目を伏せる。未完だった願いは、いま生きる二人の選択へ道を譲るみたいに薄れていく。
ロビサは鏡面へ最後の一文を刻み切った。
『返された名は、持ち主の意志によってのみ、この世へ留まる』
その文が完成した瞬間、鬼王の核がほどけた。
崩れるのではなく、結び目がほどけるように。
黒い影の中から、数え切れないほどの光がこぼれ落ちる。老人の名も、子どもの名も、呼ばれる前に消えかけていた誰かの名も、みな一度だけ淡くきらめき、それぞれの持ち主の方角へ流れていった。
大聖堂の天井近くにたまっていた夜みたいな瘴気が、薄い朝靄へ変わる。
外で、鐘が鳴った。
今度は鏡に鳴らされたのではない。誰かが、自分の意志で打った鐘の音だった。
ハディジャの背から黒い影が完全に離れた、その直後だった。
彼の輪郭まで、少しだけ薄くなった。
ロビサの心臓が跳ねる。
「ハディジャ!」
「……ああ、悪い」
彼は苦笑したが、その声が遠い。
「借りもんが抜けたぶん、こっちまで持ってかれそうだ」
鏡は正しく書き換わった。けれど、長く鬼王の核を抱えていた影響までは、すぐには消えない。名を返す文は完成した。なら、残るかどうかは本人の意志に委ねられる。
ロビサは針を握ったまま祭壇を降りた。
足元の石段が見えないくらい、目の奥が熱い。
「消えないでください」
「命令が雑だな」
「雑でも聞いてください」
ロビサは彼の前へ立った。
「あなたの名は、ここにあります。被害記録官が記しました。だから、あとはあなたが受け取ってください」
彼女は胸の前の記録紙を開く。
戦場で急いで控えた、たった今の正式記録。器候補でも、鬼王の残響でもない。下町で荷を運び、壊れた戸を直し、孤児へ飯を回し、夜回りの帰りに余計な揉め事を拾ってくる青年の記録。腹が立つくらい人のために首を突っ込み、頼まれてもいないのに誰かを助けに行く男の記録。
ロビサはその紙へ、もう一度だけ針を置いた。
『ハディジャ。都ルクスバール在住。生存を本人が承認』
「承認してください」
「記録官殿、それ、ずるいだろ」
「早く」
「……はいはい」
ハディジャは、薄くなりかけた手で自分の胸を押さえた。
それから、いつものように少し投げやりな調子で、けれど誰より真っすぐに言った。
「俺はハディジャだ。まだ帰るとこがある」
その言葉が落ちた瞬間、薄くなっていた輪郭が戻った。
光へ透けかけていた肩が、人間の重さを取り戻す。彼はその場へ膝をついたが、今度は消える前ぶれではなく、単純な疲労によるものだった。
ロビサも膝をつきそうになる。
力が抜けたのだと気づく前に、横からヴィットリアーナが肩を支えた。
「立ちなさい、見習い」
「もう見習いじゃないかもしれません」
「そうね」
ヴィットリアーナは口元だけで笑った。
「そのへんは、あとで正式に訂正しておく」
その頃には、堂内へ差し込む光の色が青ではなくなっていた。
夜霧の都に、ほんとうの朝が来る色だ。
大聖堂の外へ出ると、東の空がゆっくりと白んでいた。
都を覆っていた重たい霧はまだ消えきっていない。けれど、その中へたしかに朝日が差し込み、石畳の水たまりへ金の筋を引いている。広場では、抱き合って泣く親子がいた。名を呼び直し、何度も確かめる夫婦がいた。被害記録局の若い職員たちは手分けして走り、混乱した住民の記録を取り直している。
【続】