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相談室に入ってきたその人は、最初から椅子に座った。
迷いがないというより、流れで来たみたいな動きだった。
「……進路、決めたんです」
日下部は、顔を上げる。
「決まったなら、いいじゃん」
「はい。でも」
そこで言葉が止まる。
「“自分で決めた”感じがしなくて」
「誰かに決められた?」
「そういうわけでもないです。親とも話しましたし、先生とも相談しました」
「反対はされなかった?」
「むしろ、応援されました」
日下部は少しだけ眉を上げる。
「それで、何が引っかかってる」
「……全部、正しい選択に見えるんです」
その言い方は、どこか空っぽだった。
「条件もいい。無難。失敗しにくい」
一拍置く。
「でも、“これを選んだ自分”が、どこにもいない」
日下部は、すぐに言葉を返さなかった。
ペンを置いて、相手を見る。
「じゃあ、選ばなかった方は」
「考えました。でも、理由が弱くて」
「弱い?」
「“なんとなく違う”とか、“気が進まない”とか」
少し苦笑する。
「そんな理由で、人生決めていいのかって」
「……」
日下部は、椅子にもたれて言った。
「いいと思う」
即答だった。
「え」
「“なんとなく違う”は、結構ちゃんとした理由だ」
相手は戸惑った顔をする。
「でも、説明できないし」
「説明できない感覚の方が、後で残る」
日下部は淡々と続ける。
「説明できる選択って、だいたい他人向けだ」
「……」
「親に、先生に、将来の自分に、“正しいです”って言うための理由」
少し間を置く。
「でもさ、自分が生きるのって、自分だろ」
相手は視線を落とした。
「私、選択に責任持つのが怖いんだと思います」
「うん」
「失敗したら、“自分で選んだんでしょ”って言われるのが」
日下部は、少しだけ頷く。
「だから、無難を選ぶ」
「……はい」
「それで、“自分がいない”感じになる」
静かに核心を突く。
「逃げたいわけじゃないんです」
「わかってる」
「ちゃんと考えた結果なんです」
「それも、本当だと思う」
日下部は、少しだけ声を緩めた。
「でもな」
一呼吸。
「“納得できる選択”と、“自分が感じられる選択”は、別物だ」
相手の指が、膝の上でぎゅっと握られる。
「じゃあ……私は、間違ってるんでしょうか」
「間違ってない」
迷いなく言う。
「ただ、“まだ決めきってない”だけだ」
「決めたのに?」
「頭ではな。身体と気持ちが追いついてない」
日下部は、最後にこう言った。
「選択って、決めた瞬間に完成するもんじゃない」
「……」
「後から、“これでよかった”って育てるもんだ」
相手は、少し長く息を吐いた。
「……選んだ感覚、あとからでも持っていいんですか」
「むしろ、そっちの方が多い」
相談室の空気が、少しだけ現実に戻った。