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ハディジャが石卓へ片手をついた。まだ顔色は悪い。それでも彼の目は、手紙の上ではなくロビサの横顔を見ていた。
「さっきの残響、少しだけ見えた」
「何が」
「百年前のあいつら」
彼は喉を押さえ、言葉を選ぶように続けた。
「男のほうは、花嫁を欲しがってたんじゃない。女のほうに生きててほしかった。けど、自分がいると喰われるから、離れようとしてた。女のほうは、離れるくらいなら書き換えるって怒ってた」
不意に、石室の鏡片がいっせいに青く明るんだ。
映る。
若い女がいた。記録官の外套を着て、髪を結い上げ、記録針を握っている。まだ二十代のはじめくらいだろうか。疲れているのに目だけは強い。その向かいに、喉もとへ黒い文字を這わせた青年がいる。彼は半歩ずつ後ろへ下がり、彼女は半歩ずつ前へ出る。
『来るな』
『行くわ』
『おまえまで鏡に喰われる』
『だったら書き換える。あなたも、わたしも、どっちも喰わせない』
声はない。なのに意味だけが胸の内側へ落ちてくる。
ロビサは目を逸らさなかった。
最初にこの残響を知ったとき、胸のどこかで怯えていた。自分がただの代わりだったらどうしようと。百年前の願いに呑まれて、今の気持ちまで偽物にされたらどうしようと。
けれど違う。
目の前の女は、自分とは別の人間だ。怖がり方も、怒り方も、彼を睨む目の温度も少し違う。
そして、隣に立つハディジャもまた、あの青年そのものではなかった。
ロビサはゆっくり彼を見た。
「私は、あの人じゃありません」
「知ってる」
ハディジャが答える。
「俺も、あいつじゃない」
それでよかった。
よかったのだと、やっとはっきり思えた。
百年前の恋を、そっくりそのまま引き受ける必要はない。
続きというなら、それは焼き直しではなく、止められてしまった願いの先を、今の自分たちが別の足で歩くことだ。
ロビサは手紙をそっと石卓へ戻した。
「百年の恋の続き、って」
口に出すと、題名みたいで少し気恥ずかしかった。だが今は、笑っている余裕がない。
「同じ人同士がやり直すことじゃなかったんですね」
「じゃあ何だ」
ハディジャが訊く。
ロビサは記録針を握り直した。
「殺さないで済む書き方を、百年越しに完成させることです」
言った直後、鏡の唸りが一段強くなる。外から鐘のような衝撃音が響いた。レドルフたちのいる広間で、何かがぶつかったのだろう。
ニッキーが舌打ちする。
「説明会は終わり。広場側の良心派、もうすぐ着きます。監察院にも証拠写しは流した。でもウマル側が主祭壇を占拠したままなら、鏡面へ辿り着けない」
「辿り着く」
モンシロが即座に言った。
五年前なら、一瞬ためらったかもしれない声音で。
「広間の鬼は俺たちが抑える。ロビサ、書けるか」
ロビサは鏡を見た。青い面の奥に、都じゅうの忘れられかけた名が沈んでいる。怖くないわけがない。手が震えないわけがない。
それでも、今なら逃げたくなかった。
「書きます」
彼女は答えた。
「被害記録官として。花嫁としてではなく」
ヴィットリアーナの口元が、ほんのわずかにやわらいだ。
「そう言うと思った」
「止めないんですか」
「今さら止めたら、あなたに一生嫌われるもの」
「もう十分嫌っています」
「知ってるわ」
それでも彼女は、昔みたいに少しだけ困った顔で笑った。
「だから今度は、同じ側で嫌われる」
こんな場所で笑いそうになるなんてどうかしている。ロビサは鼻の奥がつんとして、慌てて俯いた。
その横でハディジャが小さく息を吐く。
「なあ、優等生」
「その呼び方をやめてください」
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#現代ファンタジー
るるくらげ
「無事に終わったら考える」
「今すぐやめて」
「無茶を言うな」
まだ冗談が言える。その事実が、何より心強かった。
彼は細索の端を自分の手首へ巻き直し、その反対側をロビサへ差し出した。
「今度は離れるな。残響が何を見せても、俺の名で呼べ」
「命令しないでください」
「お願いだ」
言い直した声が少しだけ低くなり、ロビサは言葉を失った。
結局、細索を受け取るしかなかった。
「……勝手に消えたら、記録に悪口を十行足します」
「八行にしとけ」
「十二行です」
「増えてるじゃねえか」
リュバが新しいムーンストーンを記録針へ嵌める。石は澄んだ月色をしていて、触れると冷たさより先に、静かな脈のようなものが伝わった。
「これで鏡面に届くはず。けれど一度書き始めたら、途中で止めないで。途中の記録は、鏡にとっていちばん都合のいい餌になる」
「止めません」
「うん。そうだと思った」
前室の外で、誰かが高く名を呼んだ。
忘れるな、と。
返せ、と。
都じゅうの人の声が、ここまで届いている気がした。
ロビサは母の手紙を畳み、胸元へしまった。紙越しに、昔の台所の匂いがしたような気がした。
守られてきたぶん、今度は自分がつなぐ番だ。
彼女は祭壇の先、大広間へ通じる最後の扉へ向き直る。
「行きましょう。最後の鬼退治をします」
剣で斬るためではない。
正しい名を返し、奪われる仕組みごと終わらせるために。
細索の先でハディジャが頷き、ヴィットリアーナが証拠箱を抱え直し、モンシロが扉へ手をかけた。
百年前に書き切れなかった一文は、まだ鏡の奥で待っている。
それを完成させるのは、もう残響の中の誰かではない。
今を生きている自分たちだと、ロビサははっきり知っていた。
【終】