テラーノベル
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大広間へ通じる扉が開いた瞬間、冷たい風ではなく、呼び損ねた名前たちのざわめきが顔へぶつかった。
広いはずの聖堂が、今は鏡の内側みたいに見えた。
天井近くまで伸びた蒼い光が何本も柱のように立ち、床へ落ちた光は細い文字になって石目のあいだを這っている。大聖堂の最奥、主祭壇の背後には、地下聖堂で見た本体とは比べものにならないほど巨大な鏡面が露出していた。青い。青すぎて、深い井戸をのぞき込んだときみたいに、見ているだけで心の底を吸われる。
その鏡から、細い糸のような光が都の方角へ無数に伸びていた。
誰かの名と記憶を、今この瞬間も引き剥がしているのだと、説明されるより先にわかった。
「遅かったな」
主祭壇の段上で、ウマルが振り返った。
鎧は磨き上げられているのに、目だけがまるで磨かれていない。何日も眠っていない人間の目だった。青い鏡光が頬の下へ影を落とし、その顔を、英雄の彫像ではなく追い詰められた若者に見せている。
「もう少し早ければ、きみたちにも感謝されたかもしれないのに」
「感謝?」
ロビサは一歩前へ出た。
「都の人の名を削っておいて、ですか」
「違う」
ウマルは即座に言い返した。
「少し削るだけで済む。少しの犠牲で、鬼を根こそぎ消せる。毎晩、誰かが忘れられていく都を終わらせられる。これのどこが間違っている」
その声音には、嘘をついている者の揺れがなかった。
本気で信じている。だからこそ厄介だった。
「少し、ではありません」
ヴィットリアーナがロビサの横へ並ぶ。
証拠箱を抱えたまま、彼女はいつもの冷えた口調で続けた。
「すでに西区では、鬼害と関係のない住民まで近親者の名を取り落とし始めています。監察院の緊急記録も届いたわ。あなたの術式は、鬼だけではなく人まで削っている」
「監察院が何を言う」
ウマルは鼻で笑った。
「おまえたちはいつだって、紙の上でしか人を救わない」
「紙の上で嘘を正せない者が、現場で正しいことをできると思わないで」
ヴィットリアーナの返しは鋭かった。
彼女は証拠箱から巻いた羊皮紙を一本引き抜き、段下にいる騎士たちへ投げるように渡す。受け取った若い騎士が戸惑った顔で開き、続いてもう一人がのぞき込み、ざわめきが広がった。
「王家地下封印庫から回収した改竄前文書、改竄後文書、印章照合結果、すべて写しを回しました」
ヴィットリアーナは声を張る。
「監察院監査官ヴィットリアーナ・セルヴィの名において告げます。蒼い鏡の現行儀式文は違法な改竄です。生贄の強要も、被害記録の秘匿も、すべて記録違反。家の命令ではなく、私自身の判断で公表します」
大広間の空気が、一瞬だけ別の意味で静まった。
ヴィットリアーナの家名は重い。その重さを、彼女は今までずっと自分の鎧にしてきた。だが今、彼女はその鎧を内側から割って、自分の名で立っている。
その静まりを破ったのは、鏡のうなりだった。
天井から吊られた燭台がいっせいに震え、青い文字の帯が床を走る。段下の聖職者の足元から、名を失いかけた影が湧き出した。人の形をしているのに、顔のところだけがぼやけている。喉のない口で叫ぶように、影は腕を伸ばした。
「来るぞ!」
モンシロの声が飛ぶ。
「前列、盾! 後列は記録袋を守れ! 若手を一人にするな!」
その指示で、現場班と良心派の騎士たちが散った。
レイノルデが扉の脇から低く言う。
「ロビサ。祭壇へ行け。現場の掃除は、現場慣れした大人に任せろ」
「でも――」
「見捨てないことと、全部自分で抱えることは違う」
あの先生の声だった。
幼い日の自分を立ち上がらせたのと同じ、無理に背中を押しすぎない声音。
ロビサは息を吸い、頷いた。
「……はい」
「ハディジャ」
モンシロが振り向きもせず怒鳴る。
「護衛は任せた!」
「言われなくても!」
返事と同時に、ハディジャが駆けた。
彼の足首に繋いだ細索がぴんと張り、ロビサも走る。段上へ向かう途中、名の抜けた影が横から襲いかかったが、ハディジャは半身で受け、短刃ではなく肩と肘で弾き飛ばした。刃で斬ったところで終わらないと、もう皆わかっている。影を遠ざけ、時間を稼ぐ。それで十分だった。
その一方で、段下では別の戦いが始まっていた。
レドルフが大広間の中央へ躍り出る。
いつのまに持ち込んだのか、葬送劇で使う細長い杖を高く掲げ、その先端で石床を一度だけ打った。乾いた音が、堂内のざわめきへ一本の筋を通す。
「聞け!」
普段の芝居がかった声音とは違う、腹の底から響く声だった。
「忘れられた名には、まだ帰る場所がある! 被害記録局送辞役、レドルフ・アーンが読む! 忘却へ沈められた者どもよ、舞台はまだ閉じていない!」
彼は胸元の束から紙を引き抜いた。
そこにあるのは、何年もの被害記録だ。記された名、最後の言葉、遺された癖、好きだった匂い、誰に何を渡したかったか。役所の記録でありながら、人の暮らしの断片でもある。
【続】
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