テラーノベル
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玄関の扉が閉まる音は、軽い。
春真が帰ってきた音だと、すぐ分かる。
「ただいまー」
明るい声。
それだけで、空気の温度が少し上がる。
「おかえり、春真」
キッチンから返る声も、柔らかい。
足音。笑い声。
今日あった出来事を、断片的に話す声。
「でさ、あいつが――」
「それで?どうなったの?」
「マジでウケてさ」
会話が、自然に流れる。
澪継は、自分の部屋の前で立ち止まったまま、動かない。
入るタイミングを、測っているわけじゃない。
ただ――
今、入るべきじゃないと、体が知っている。
少し時間をずらして、リビングに入る。
テレビの音が、空間を埋めている。
「……ただいま」
小さく言う。
誰も、返さない。
聞こえていないわけじゃない。
ただ、拾う必要がないだけだ。
「手、洗ったの?」
母親が言う。
振り向きもしない。
「……うん」
「ちゃんと洗いなさいよ。汚いまま触らないで」
確認でもない。注意でもない。
ただの線引き。
「……ごめん」
言ってから、自分でも違和感を覚える。
何に対しての「ごめん」なのか、分からない。
けれど、言わないよりはいいと、もう覚えている。
食卓。
春真の前には、少し多めに盛られた皿。
「部活どうだった?」
「まだ見学だけだけどさ、先輩めっちゃ優しくて――」
話が弾む。
笑いが起きる。
視線も、声も、全部そこに集まる。
澪継の前の皿は、最低限。
量の問題じゃない。
扱いの問題だ。
「……」
箸を動かす。
味は、分からない。
ただ、口に入れて、飲み込むだけ。
「それでさ、今度――」
会話は続く。
澪継は、その外にいる。
同じ空間にいて、同じ時間を共有しているのに、“会話の中”には一切含まれていない。
「そういえば」
父親が、ふと思い出したように言う。
「澪継」
名前を呼ばれる。
反射的に、手が止まる。
「……はい」
「学校、問題起こしてないだろうな」
疑いから入る声。
確認ではない。
前提が、すでに決まっている。
「……ない」
短く答える。
「本当か?」
「……うん」
数秒の沈黙。
それだけで、空気が少し冷える。
「まあ、いいけどな」
興味を失ったように、視線が外れる。
それで終わり。
安心ではない。
ただの、放置。
食事が終わる。
春真は、そのままリビングに残る。
テレビの前。笑い声。
澪継は、皿を持って立つ。
「それ、ちゃんと洗っといて」
母親が言う。
「……うん」
シンクに向かう。
水の音だけが、やけに大きい。
背後では、まだ会話が続いている。
「春真さ、それほんと?」
「いやマジでって!」
笑い声。
混ざらない。
混ざる余地がない。
そのとき。
「――あ」
春真が、ふと声を上げる。
「そういえばさ」
軽い調子で、続ける。
「今日、あいつらなんかやってたよ」
澪継の手が、止まる。
水が流れ続ける。
「あいつらって?」
「澪継のクラスのやつら。なんか、円作ってさ」
笑いながら言う。
「で、真ん中に一人立たせてさ。あれ何なんだろ」
――。
一瞬だけ、時間がずれる。
「さあね」
母親が興味なさそうに返す。
「くだらないことしてるのね」
「だよな。マジで意味わかんない」
春真は笑う。
軽く。
本当に、何も知らない顔で。
「……」
澪継は、振り向かない。
振り向いたら、何かが壊れる気がした。
知らない。
本当に、知らない。
同じ教室にいて、
同じ空気を吸っていて、
同じ“場面”を見ていたのに。
認識が、まるで違う。
「澪継」
母親の声。
「終わったなら、さっさとどきなさいよ。邪魔」
「……うん」
水を止める。
手を拭く。
そのまま、部屋に戻る。
ドアを閉める。
音は、出さない。
出さないように、閉める。
ベッドに座る。
何も考えないようにする。
けれど、勝手に浮かぶ。
昼の視線。
笑い声。
「どこまでいけるか」
そして――
「意味わかんない」
春真の声。
あの場面を、そう言える側。
そこに、いる人間。
「……」
喉の奥が、少しだけ痛い。
声は、出ない。
出さないんじゃない。
出る必要がないだけだ。
ここでも。
学校でも。
同じ。
同じ苗字。
同じ家。
同じ場所。
それでも。
澪継は、どこにも含まれていない。
含まれないまま、存在している。
それが――
この家での、“正しい位置”だった。
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