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朝。
「おはよ」
珍しく、澪継の方から声を出した。
靴を履きながら、リビングに向けて。
一瞬だけ、空気が止まる。
「……おはよー」
返したのは、春真だけだった。
母親は振り向かない。
父親も、新聞から目を上げない。
それでも。
「……行ってくる」
言葉を続ける。
誰かに届くかどうかじゃない。
“言う”こと自体が、必要だった。
「いってらっしゃい、春真」
重なる声。
澪継の言葉は、その中に埋もれる。
「……」
それでも、何も言い直さない。
訂正もしない。
慣れているからじゃない。
慣れようとしているだけだ。
学校。
「おはよー春真!」
「今日早くね?」
「な、たまたま」
笑い声。
澪継は、その少し後ろを歩く。
「……おはよ」
小さく、近くの席の男子に声をかける。
「あ?ああ」
視線だけ向けて、すぐ逸らされる。
それでも。
「昨日のプリント、出した?」
続ける。
会話を繋ごうとする。
「……出したけど」
短い返事。
それ以上は続かない。
「そっか」
終わる。
でも、完全な無音ではない。
それだけで、少しだけ違う。
一時間目が終わる。
「なあ」
後ろから声。
いつもの三人。
「昼な」
「……うん」
頷く。
でも、そのあと。
「今日、何するの」
自分から聞いた。
一瞬、相手が笑う。
「何、気になる?」
「……準備とか、あるなら」
言い訳みたいな言葉。
本音は違う。
“分かっておきたい”だけだ。
「別に。いつも通りだよ」
「……そっか」
それ以上は聞かない。
聞いても変わらないと、分かっているから。
昼休み。
机が動く。
音が、教室の中心に集まる。
「来い」
呼ばれる。
澪継は歩く。
足取りは、止まらない。
「今日はさ」
笑い声。
「順番、ちゃんとしようぜ」
「順番……?」
思わず、口に出る。
「は?」
一人が振り返る。
「お前さ、いつも途中で止まるじゃん」
「……」
「だからさ、最初から最後まで、順番にやる」
説明は、それだけ。
十分だった。
「……」
理解はできる。
納得は、しない。
「無理そう?」
笑いながら、覗き込まれる。
試す目。
「……やるよ」
短く返す。
強がりでもない。
拒否でもない。
ただ、選択肢がないだけだ。
囲まれる。
距離が詰まる。
「ほら」
「……」
「順番な」
指示される。
一つずつ。
逃げ場はない。
視線が増える。
最初は数人だったのに、
いつの間にか、外側に人が増えている。
女子もいる。
見ている。
何も言わずに。
「……」
澪継は、一度だけ目を閉じる。
それから、開く。
「……次、どれ」
自分から言った。
一瞬、空気が揺れる。
「お、やる気じゃん」
笑い声。
「じゃあ次これな」
軽く、指示される。
従う。
体が動く。
頭は、止める。
感じないように。
考えないように。
ただ――
終わらせるために。
「――あれ」
聞き覚えのある声。
春真。
外側に立っている。
「またやってんの?」
軽い調子。
昨日と同じ。
「見てく?」
誰かが言う。
「いや、いいや」
即答。
「飯まだだし」
興味がない。
本当に、それだけ。
「そ」
視線が外れる。
関係がないから。
「……」
澪継は、一瞬だけ、そっちを見る。
ほんの一瞬。
目が合う――前に、逸らされる。
気づかれてすら、いない。
「よそ見すんなよ」
後ろから声。
軽く押される。
「……ごめん」
反射で出る。
「続き」
「……うん」
戻る。
さっきまでと同じ場所に。
同じ“順番”の中に。
全部が終わる頃には、
呼吸が、少しだけ浅くなっていた。
「はい、終わりー」
笑い声。
散っていく。
机が戻る。
何もなかったみたいに。
「……」
澪継は、その場に少しだけ残る。
それから、自分の席に戻る。
椅子に座る。
手を見る。
少し震えている。
止める。
机の下で、握る。
「……大丈夫」
小さく、呟く。
誰にも聞こえない声で。
午後の授業。
「はい、ここ誰か」
教師の声。
一瞬の静寂。
「じゃあ、澪継」
名前を呼ばれる。
教室の空気が、わずかに揺れる。
「……はい」
立つ。
黒板を見る。
問題は、分かる。
さっきより、よほど簡単だ。
「答え、言えるか?」
「……言える」
言葉を選ばない。
そのまま出す。
「――」
正解。
「正解だな。座れ」
ざわめきが、小さく走る。
「……」
座る。
誰も褒めない。
誰も何も言わない。
それでも。
さっきとは違う。
少しだけ。
ほんの少しだけ――
“自分で選んだ言葉”だった。
放課後。
「帰る?」
春真が、珍しく声をかけてきた。
何気ない調子で。
「……別に」
「じゃ、一緒に行く?」
軽い。
意味はない。
深さもない。
それでも――
「……いいよ」
澪継は、答えた。
初めて、自分から選んだみたいに。
その隣に立つ。
同じ苗字。
同じ帰り道。
並んで歩く。
距離は、近い。
でも――
まだ、触れない。
その距離のまま。
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