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夜の帰り道。
人気のない路地で、遥が日下部の前に立ちはだかった。
「なあ……キス、してみる?」
唐突なその言葉に、日下部は一瞬、息を止めた。
「……なんで」
「なんで、って……そっちがオレ、好きなんじゃないの?」
遥の声は平坦だった。皮肉も照れもなく、ただ、投げるような無感情。
「オレ、そういうのなら慣れてるし。……触られるくらい、今さらなんともないよ」
それは本当だ。
遥がどう“扱われてきたか”、日下部は知っている。
知っていて、見ていて、止められなかった。
「でも、それって……“そういうこと”じゃねえだろ」
「そういうことじゃないなら、何がしたいの?」
遥は一歩、日下部に詰め寄った。
目は冷たいまま、表情もない。
「“好き”とか、“大事”とか、言うわりに……結局、何もしてこない。なんで?」
日下部は言葉に詰まる。
「こっちはさ、どうせ壊れてるし、もう誰に抱かれても変わんねーのに。……それでも触れないの、優しさ?」
遥の指が日下部の制服の胸元を掴んだ。
「それとも、気持ち悪いって思ってんの?」
日下部はその手を、そっと自分の手で包み込んだ。
「……お前が、本気で誰かに触られたこと、ないのかもしれないって思っただけだ」
遥の表情が、はじめて揺れた。
それでも無理やり、口角を上げた。
「じゃあ……触ってみなよ。壊れた人間に、どれだけ価値あるか」
「壊れてるとか、そういうの、もう言うなよ」
日下部の声が少し震えた。
遥の視線が、そこでやっと下を向いた。
風の音が二人の間を抜けていった。
沈黙の中、遥は手を離した。
「──あーあ。やっぱ、触れないんだな。期待したオレがバカみたい」
「違う」
「違くない。……触ってくれなきゃ、愛されてる気なんか、しない」
その言葉に込められたのは、怒りでも悲しみでもない。
ただ、ひどく冷えた“事実”だった。
「……じゃあ、おれはどうすりゃいい」
日下部が、絞り出すように言った。
遥は少しだけ笑った。
その笑みは、「諦め」の形をしていた。
「知らねえよ。こっちは、ずっと、何されても許されなかったから」
その場に残ったのは、取り繕った静寂と、擦れ違う温度だけだった。