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ドアの小さな鈴が鳴った。雨の匂いをまとった空気が、部屋に滑り込んでくる。
窓際のランプだけが灯る薄暗い部屋。
遥はカップにぬるいコーヒーを注ぎ足し、視線だけを入口に向けた。
入ってきたのは高校生くらいの男の子だった。
傘を持っていないのか、制服の肩が濡れている。
彼は言葉を探すように口を開いた。
「……最近、何をしても楽しくないんです。
好きだった音楽も、友達と遊ぶのも、
何もかもが遠く感じます。
なのに、周りは普通に笑っていて……
自分だけが外にいる気がする」
遥はカップを静かにテーブルに置いた。
「外にいる、か」
それだけを呟き、しばらく黙る。
少年は視線を落としたまま続けた。
「別に嫌なことがあったわけじゃない。
ただ、心が抜け落ちたみたいで。
みんなに合わせて笑おうとしても、
顔が動かないんです」
「無理に動かさなくていい」
遥の声は低く、やわらかかった。
「楽しくないのに笑うのって、
すごく体力を使うから。
何もしないで、ただそこにいるだけでも
ちゃんと時間は進む。
それを“失われた”って呼ぶ必要はない」
少年は少しだけ顔を上げた。
ランプの光が、濡れた髪の滴を金色に染める。
「……でも、何もしないのが怖いんです」
「怖いよな」
遥は淡く笑った。
「俺も、何度もその怖さに飲まれた。
だけど、不思議なもので、
息をしているだけでも
いつか心は勝手に動きだす。
その“勝手”を待つ時間が、
いまの君にとって必要なのかもしれない」
静かな雨音が、部屋を包んだ。
少年はゆっくりと呼吸を整え、
やがてかすかに頷いた。
ランプの光が、
二人の沈黙をあたためていた。