家に着くと秋子が笑顔で出迎える。
「寒かったでしょう。さぁ入って」
瑠璃子は挨拶をしてから買って来た弁当を秋子に渡した。
「まぁ! 美味しそう!」
秋子は喜んでくれた。
温かいお茶と共に、美味しそうな漬物や作り置きの常備菜を秋子が持って来てくれる。
二人は弁当を食べながら話しを始めた。
瑠璃子はまず幼い頃に出会った青年の事、そしてその青年と交わした約束についてを秋子に話した。当時の記憶が一部消えていてその青年の身元がわからない事も伝える。
それから大輔との関係についてを話した。もちろん瑠璃子にとって大輔は今一番大切な人である事も伝えた。
それを踏まえた上で、今心の中がもやもやしていると正直に話した。
一通り話を聞いた秋子は少し驚いているようだった。
「へぇ、そんな事があるものなのねぇ。記憶が少しずつ戻ってると言ってもまだ一部のようだし? 今後全て思い出すとも限らないんでしょう?」
「はい。全部思い出せるかどうかはわからないみたいです」
秋子は大きく頷くと、一呼吸おいてから話し始めた。
「『過去』と『未来』ってね、少し厄介なのよ。なぜならどちらも自分の頭の中ではいくらでも作り変えられるから。でもね、この世には『不変』のものも存在するのよ。それは何かっていうと『今この瞬間』なのよ」
秋子は一度お茶を一口飲む。そして続けた。
「今この瞬間……つまり今目の前で起きている現実っていうのは変える事は出来ないでしょう? 美術の世界でもね、同じ様な事があるのよ。例えば絵画……油絵ね。あれは上からどんどん塗り重ねていって過去に入れた筆の跡をいくらでも変えられるの。『過去』と『未来』ももしかしたらそんな感じかもしれないわ。でもね、私がやっている染織は一発勝負なの。染めた瞬間に全てが決まるのよ。潔いでしょう? つまり油絵が『過去』と『未来』だとしたら染織はまさに『今この瞬間』なのよ」
瑠璃子はじっと耳を傾けている。
「つまり何が言いたいかっていうと、手を加えて変わってしまうものよりも、今目の前に見えている不変のものを大切にしたらいいんじゃないかなって事」
秋子は瑠璃子の目を見つめながら真剣に言った。
「今瑠璃子さんが気になっている青年は、もしかしたら遥か昔の遠い記憶に瑠璃子さんが筆を加えて勝手に美化しているかもしれないわよね? だから想い出の中の青年とは違うかもしれない。でも、今目の前にいる先生はありのままの先生で、決して変わる事のない不変の人なの。わかるかしら?」
瑠璃子はなんとなく秋子が言いたい事がわかってきたような気がした。
「だからね、20年前の思い出に勝手に絵の具を足してロマンスに変えては駄目なの。それよりもあなたが今見るべきものはあなたの目の前で起きている現実よ。つまり『今この瞬間』を尊重して生きた方がいいって事!」
秋子の話を聞いた瑠璃子は思わず胸が熱くなる。そして秋子の言っている事は紛れもない真実だと思った。
過去の不確かなものを追い求めるあまり、今目の前にある大切な物を失ってはいけない。秋子はそう瑠璃子に言いたいのだ。
瑠璃子はなんだか目が覚めたような気がした。
「ありがとうございます。なんか頭の中のもやが晴れたような気がします。そして全て腑に落ちました。仰る通りこれからは目の前にいる大切な人だけを見ていこうかなって思いました」
瑠璃子は少し涙ぐんでいる。
「そうよ、それがいいわ。それにね、もしその青年に会いに行ったとしてよ? その人がイメージとは全く違ったらどうするつもりだったの? 人間なんてね、過去のいい部分しか覚えていない生き物なのよ。だから実際会ってみてガッカリ~なんて事もあるかもしれないわよ」
秋子はクスクスと笑う。
「最悪の場合、その人がその約束を覚えていない可能性だってあるじゃない? 幼いあなたにほんの軽い気持ちで言っただけかもしれないし? もしくは今は結婚して凄く遠い所に住んでいるかもしれないし?」
「確かにそうですよね。私だけが盛り上がっていざ会いに行ったら相手は来ていなかった~なんて事もあるかもしれませんよね」
「そうそう。映画みたいなロマンティックな設定だからついほだされちゃうけれど、意外と現実なんてそんなものよ」
そこで秋子はお茶をもう一杯淹れにキッチンへ向かった。
瑠璃子は人生の大先輩である秋子に相談してみて本当に良かった思った。秋子のお陰で瑠璃子の気持ちは固まる。
瑠璃子は誕生日にラベンダーの丘へ行かないと決めた。
一方、秋子はお茶を淹れながら先日家の前で車に乗った大輔と挨拶を交わした時の事を思い出していた。
あの時大輔の目を見た秋子は、大輔が本気で瑠璃子の事を大切に思っている事がわかっていた。
秋子は昔から人を見抜く力があるから間違いない。
だから瑠璃子が大輔を手放さないようアドバイスした。二人はきっと上手くいく…秋子にはその自信があった。
翌朝、瑠璃子はすっきりした気持ちで目覚めた。昨日秋子に話を聞いてもらい心の整理がついていた。
瑠璃子はまた素敵な友達が一人増えた事が嬉しかった。
(いつか秋子さんには何か恩返しが出来るといいな……)
そう思いながら瑠璃子は仕事へ行く準備を始めた。
大輔が車を運転していると、大輔の車を待つ瑠璃子の姿を見つけた。
瑠璃子の顔はキラキラと輝いていた。大輔からの愛が彼女を一層美しく輝かせている。
そんな美しい瑠璃子に見とれながら大輔は車を停めた。
「先生、おはようございます」
「おはよう。今日はなんだか楽しそうだね」
そこで瑠璃子は微笑んで言った。
「ええ。私、今とっても幸せです」
それを聞いた大輔は思わず満たされた気持ちになる。
「瑠璃ちゃんが今幸せって思えるなら僕も幸せだな」
そこで二人は無言で手を握り合う。
そして車は病院へ向かった。
手を繋いだまま大輔がふと思い出したように言った。
「ところで今度の土日は学会で東京なんだ。だから申し訳ないけれど土日の朝はバスで行ってもらってもいい?」
「もちろんです。そういえば私達が出会った日も先生は学会の帰りでしたよね?」
「そうだね。東京はあれ以来だな」
二人は病院に着くまでの間、当時の思い出話に花を咲かせた。
コメント
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秋子さんのアドバイス凄く分かりやすいです。 親身になってくれるお友達が出来て良かったね🤗 瑠璃ちゃんの周りは素敵な人がいっぱい🩷
秋子さんの仰るように 今のこの瞬間、この幸せを大切にした方が良いけれど🍀✨ 約束の日にラベンダーの丘に行くことは 大輔先生への裏切りにはならないと思うし、是非行ってみてほしいです💜
うん。皆様と一緒。 現在を大切に、ラベンダーの丘に行ってほしい。 それは 自分が今、人生において凄く大切なヒトが出来た事を報告するつもりで。︎💕ね❤ きっと良いことがあると信じます(*´∀`)ノ︎💕