街のカフェで、水無月はその声に振り向いた。
――あの日と同じ笑い方、同じ目の色。
でも、名前を呼ぶのをためらった。
「……初めまして」
彼はにこりと笑った。
耳慣れた声なのに、まるで知らない人を前にしているようで、胸がざわついた。
拓真。
事故で記憶を失ってから、もう半年が過ぎた。
事故の前の記憶は、何も残っていないという。
水無月のことも、幼なじみだったことも、恋人だったことも、すべて忘れたらしい。
「初めまして……でも、なんだか、懐かしい気がするね」
そう笑う拓真の顔に、水無月は息を詰めた。
覚えていなくても、触れたらわかる気がした。
彼の温もり、指の感触、笑ったときの唇の動き。
すべてが、体に染みついている。
その日の帰り道、水無月は無意識に彼の手を握っていた。
拓真は驚いた顔をしたけれど、すぐに笑う。
「……悪くないね、この手」
その指先は、かつての記憶を取り戻すかのように、水無月の指を絡めてくる。
家に帰っても、胸の奥のざわめきは収まらなかった。
どうしてこんなにも心が騒ぐのか。
忘れられたはずの関係が、まだ体の奥で生きている。
数日後、二人きりの公園。夕暮れが空を赤く染める。
拓真がベンチに腰掛け、少し不安げに言った。
「……ねえ、俺、前に君と会ったことある?」
「うん、たくさん」
言葉に詰まりながらも、水無月は真実を噛みしめるように答えた。
嘘はつけない。だけど、彼にとってはすべてが初めてのこと。
「そうなんだ……君のこと、覚えてないんだ」
笑う拓真。胸が締め付けられる。
でも、覚えていなくてもいい。
俺はまた、彼を好きになる――再び恋に落ちるんだ、と心で決めた。
ある夜、拓真のアパートに呼ばれた。
雨の音が窓を叩く中、二人はソファに並んで座っていた。
互いに距離を詰められずにいたけれど、目と目が合うたび、鼓動が高鳴る。
「……君って、優しいんだね」
拓真の声が震える。
「ありがとう……俺も、君に会えて嬉しい」
無理に明るく答える水無月の手を、彼がそっと握った。
その瞬間、距離の壁は崩れた。
抱きしめると、忘れてしまった時間も、痛みも、すべてが流れ出す。
彼の体温を感じるたび、思い出せない記憶が、形を持たずに胸に染み込む。
「……俺、君のこと、もっと知りたい」
彼の声が低くなる。
そして唇が重なる。
覚えていなくても、求め合う気持ちは確かにそこにある。
夜が深まるにつれて、互いの呼吸と体温だけが二人を包み込む。
事故前の関係も、失われた記憶も、もう関係なかった。
今ここで、また二人は恋に落ち、体を重ね、心を寄せ合う。
抱きしめたまま、拓真の耳元で囁く。
「大丈夫だよ。忘れても、俺はまた好きになる」
小さく震える彼の手を握り、水無月は誓う。
――何度だって、君を抱きしめる、と。
朝が来ても、雨は止まず、部屋を静かに濡らしていた。
でも、二人の間の温もりは、昨日よりも確かに強く、未来へと繋がっていくのを感じていた。
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