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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
襖の向こうに立つモンジェは、しばらく一歩も動かなかった。
部屋の明かりは弱く、古いノートの表紙だけが膝の上で静かに光って見える。クリストルンはそれを抱えたまま、父の顔から目をそらせなかった。
「これ、何」
さっきと同じ問いなのに、今度は少しだけ低い声になった。
モンジェは喉の奥で息を詰まらせ、それからようやく部屋に入ってくる。大きな体のくせに、踏み込む足音は妙に軽かった。
「……見つけたか」
「見つけたよ。見つけちゃったよ」
クリストルンはノートを開き、最初の数ページをめくった。耳の縫い方、抱き心地の調整、子どもの手の大きさに合わせた寸法。ところどころに何度も書き直された跡があり、迷いながらも諦めなかった人の気配が残っている。
そして、ページの隅に小さく書かれていた。
考案 モンジェ
クリストルンの指が、その名前の上で止まる。
「お父さんの字だよね」
「ああ」
「これ……お父さんが考えたの」
「昔な」
あまりにもあっさり認めるので、かえって胸が痛くなった。
「じゃあ、私が会議で言ったあれ……」
「似るだろうな。おまえは昔から、人が言えないことを拾う子だった」
「そういう話じゃないよ」
クリストルンの声が震える。
「私、てっきり自分で初めて思いついたんだと思ってた。なのに、もうここにある。しかも、お父さんの名前で」
モンジェは苦く笑った。
「盗んだわけじゃない。おまえの頭で、ちゃんとたどり着いた」
「でも、続きだったんだ」
その言葉に、モンジェの肩がわずかに揺れた。
クリストルンはノートを見つめる。
小指の先ほどの録音ボタンの位置らしき丸印。椿の花びらのような耳の角度。抱いたときに子どものあごが自然に乗るようにという書き込み。
どれも、ただ売れるものを作ろうとした人の線ではなかった。
「どうして隠してたの」
「隠したかったわけじゃねえ」
「じゃあどうして」
問い詰める娘に、モンジェはすぐには答えない。
長い沈黙のあと、彼はノートから目をそらしたまま言った。
「完成できなかったものを、毎日見てると、人は弱くなる」
その一言だけで、クリストルンは胸の奥をつかまれたような気がした。
強くて、豪快で、笑って何でも流してしまう父にも、見られたくない未完成があったのだ。
クリストルンはそっとノートを閉じる。
「これの名前、きれいだね」
「おまえの母さんがつけた」
「お母さんが?」
「ああ。椿みたいに、冬を越えても芯が残る玩具になれってな」
クリストルンの視線が、胸ポケットのリボンへ落ちる。
母の名残と、父の未完成。
その二つが、今、同じ手の中にあった。
「……私、これの続き、知りたい」
モンジェは答えない。
けれど、否定もしなかった。
それだけで十分だった。