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机の上の白紙が、相談用紙に変わるまで、遥はしばらく目を閉じていた。 目を開けたとき、そこに書かれていたのは、短く、途切れ途切れの文。
「……おじが、近くに座ると、耳の横で笑います。
何もしてこないけど、服のすそをつまんだり、腕に触ったりします。
『そんな顔するな』って言われて……。
怖いけど、うまく笑えなくて、怒られます。
みんなには、仲良しって思われてます」
遥は、それを最後まで読み切ると、紙の端を押さえたまま目を逸らした。
視界の隅で、あの時の光景が重なる。
廊下の奥で、兄たちが作る壁。
笑いながら、逃げ場を塞ぐ足音。
触れるか触れないかの距離で、吐息が耳にかかる感覚。
「……仲良し、か」
遥は口元をゆがめた。笑いではない。
「笑えって言われると、余計笑えなくなるだろ。
笑ってるふりをすると、今度は『もっと自然に』とか言われる。
あれ、拷問と変わらないんだよ」
相談者は下を向いたまま、微動だにしない。
「触られないならセーフ、って思ってる奴らは多い。
でもな……触れられる前の空気って、もう汚れてるんだよ。
その空気ごと、飲み込ませようとしてくる」
遥は、自分でも驚くほど淡々と喋っていた。
まるで、どこかの遠い出来事を語るように。
けれど心臓の奥で、当時の吐き気だけははっきり蘇っていた。
「……逃げられないなら、全部記憶しとけ」
遥は机の上にペンを置く。
「相手の目の色、息の匂い、指の動き……そういう細かいのをな。
それが残ってる限り、あいつらの方が、あんたの中に生き続ける。
でも逆に、それを武器にできる日も来る」
相談者がわずかに顔を上げた。遥は、その目を見返す。
そこに映った自分が、かつての自分と重なっているのを、遥は知っていた。
「冗談じゃないってこと、俺は知ってる。
……だから、あんたも忘れるな」
「武器にするって、どういうこと?」
相談者の子が、机の上に置いた指先をじっと見つめたまま訊いた。声は小さいけど、聞き逃せない重さがあった。
「忘れないことだよ」
遥はゆっくり言う。目を合わせすぎないように、でも逃げない距離感で。
「触れられた感触とか、笑われたときの匂いとか、体が勝手に覚えてるやつ。全部、捨てないで持っておく。相手が“そんなことなかった”って言っても、自分の中ではちゃんと残ってる。消されない記録みたいに」
その子は一瞬、まばたきもせず黙っていた。
遥は言葉を続ける。
「その記録があると、次に同じことされたとき、“これは間違ってる”ってすぐ分かる。前にやられたことを思い出せば、ただの痛みじゃなくなる。……それが俺の言う武器」
「でも……そんなの、持ってたら苦しくない?」
「苦しいよ」遥は短く笑った。
「でも、捨てたらもっと苦しい。あいつらのやったことを、本当に無かったことにされるのは、俺は耐えられない」
机の下で、その子の手がわずかに握られるのが見えた。
遥はその動きを見なかったふりをしながら、ゆっくり背もたれに身を預けた。