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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
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経理部は、思っていたより騒がしかった。
「七万八千……違う、八万二千……あっ、待って、違う!」
書類の山を前に、レリヤが電卓をにらんでいる。
その横で先輩社員が慣れた顔で訂正印を押していた。
クリストルンは書類を届けながら、目を丸くする。
「レリヤさん、数字の仕事ですよね」
「そうよ」
「今、すごく数字と喧嘩してませんでした?」
「私は暗算が苦手なだけ」
「致命的では」
「でも流れは読めるわ」
次の瞬間、レリヤは渡された企画予算書を三枚ほどめくり、ぴたりと指を止めた。
「この案、今月は通りやすい」
「えっ」
「役員会で話題になってるのが教育玩具だから。逆に季節物は今は厳しい」
「そんなことまで分かるんですか」
「数字は苦手。でも、人が数字をどう使うかは見えるの」
クリストルンは口を閉じた。
電卓をたたき損ねていた人と、同一人物とは思えない。
レリヤは椅子にもたれ、ペン先で予算表をとんとん叩く。
「夢はね、数字に翻訳しないと死ぬのよ」
「すごいこと言いましたね」
「名言っぽいでしょ。でも本当」
「じゃあ、私の案も翻訳しないと駄目ですか」
「当然。親の気持ちは尊い、だけでは通らない。誰が買うのか、いくらなら買えるのか、何個売れば次につながるのか。そこまで並べて初めて、大人は聞く」
厳しいのに、嫌味ではない。
クリストルンは少し身を乗り出した。
「教えてください」
「やだ」
「即答」
「ただし、あなたが倉庫で拾った返品理由の整理表、それは悪くなかった」
意外な言葉に、クリストルンは目を瞬かせる。
「見たんですか」
「回ってくるもの。ここはそういう部門」
「……恥ずかしいです」
「恥ずかしいうちに覚えなさい。誰かを泣かせる数字もあれば、誰かを助ける数字もあるから」
そのとき、レリヤは自分の計算表を見て、また顔をしかめた。
「あ、今度は本当に桁を落とした」
「やっぱり数字弱いんですね」
「うるさい」
けれどその声は、少しだけ笑っていた。
部屋を出る直前、クリストルンは振り返る。
レリヤはもう別の書類を読んでいた。
損と得を量る目の奥に、まだ見せていない何かがある気がした。