テラーノベル
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墓苑から戻った夜、被害記録局の工房は、いつもより遅くまで灯りが落ちなかった。
リュバが作業台の上でムーンストーンの原石を薄布ごしに固定し、ニッキーが脇で昨夜までの手紙の断片と照合表を広げている。火鉢の赤い光に混じって、青い石の内側からごく弱い月光が滲んでいた。
「怖がるなら、今のうちに離れておきなさいよ」
リュバが工具を並べながら言う。
「割れたら泣くから」
「石がですか、私がですか」
「両方」
作業台の向こうでニッキーがくすりと笑った。
ロビサは原石から目を離せなかった。墓苑で見た百年前の光景が、まだ手のひらの温度として残っている。鬼になりかけた青年。名を奪われる前に記そうとした若い記録官。あれが本当に過去の断片なら、今の蒼い鏡へ刻まれている『花嫁の生贄』とは、どこかで話が噛み合わない。
「ロビサ」
ニッキーが帳簿から顔を上げた。
「昨夜拾った紙片、同じ筆圧のものがもう一枚見つかった。内容はまだ穴だらけだけど、『器』って字が読める」
「器……」
「花嫁だけじゃなく、鏡のほうも準備していたってことかもしれない」
さらりと言われたその語が、胸の奥へ冷たく沈んだ。
ちょうどそのとき、工房の半開きの扉を、こつ、と軽く叩く音がした。
振り向く前から誰かわかったのが、少し悔しい。
「入っていいか」
ハディジャだった。
昼間の埃をまだ肩に残したまま、彼は扉にもたれた。いつものような軽口を叩く顔ではない。墓苑で瘴気をまともに浴びたせいか、目の奥に薄い疲れが沈んでいる。
リュバは一瞥しただけで工具を置いた。
「石の前で大声を出さないなら」
「ずいぶん信用がないな」
「あるなら最初から釘は刺さない」
ハディジャは鼻で笑ってから、ロビサの隣へ来た。
「昼のこと、少し話したい」
「私もです」
答えたくせに、ロビサは自分の声が少し硬いのを自覚した。
工房の裏手にある水場へ出ると、夜気はひどく静かだった。局舎の屋根を越えた先に月が見える。丸くはない。欠けているのに、妙に明るい。
石の縁へ腰を下ろしたハディジャは、しばらく何も言わず、井戸の釣瓶をぼんやり見ていた。
「禁書庫で見た」
先に口を開いたのは彼だった。
「器候補の図。鬼王の核を受ける体質の話も。……俺の腕に出た封印文字と、ほとんど同じだった」
「やっぱり」
「やっぱりって顔するなよ。言うほうも気楽じゃない」
「していません」
「してる。今日は眉じゃなくて、声の端が下がる」
またそうやって見抜くのか、と言い返しかけてやめた。
ハディジャは井戸水で手を洗い、その濡れた指先を見たまま続ける。
「墓苑で石に触れたとき、誰かの声が重なった。男だった。たぶん、百年前のあいつだ」
「あいつ」
「お前が見た若い記録官と一緒にいた、鬼になりかけの青年」
ぞくりとした。
あの過去の断片を、ロビサ一人だけが見たのではなかった。
「何て?」
「うるさかった」
ハディジャは苦い顔で口元を歪めた。
「守れ、逃がせ、選べ、捨てろ。そういうのが、ごちゃごちゃに」
「……今も聞こえるんですか」
「近くに石があると、少し」
そこで彼はロビサを見た。
「お前がそばにいると、もっとはっきりする」
胸がひやりと縮む。
夜の静けさが、急にうるさく感じられた。
「それは」
「勘違いするな」
ハディジャが先に言った。
「口説いてるわけじゃない。鏡も石も、お前に反応するから、そのせいで俺の中の何かも騒ぐんだろ」
「そんなこと、わかっています」
「ならいい」
よくない、と思った。
わかっているからこそ、よくなかった。
ロビサは石の縁から立ち上がった。
「しばらく距離を置きます」
「は?」
「私が花嫁候補で、あなたが器候補なら、近づくほど鏡の呪いを強める可能性があります。墓苑でも、反応は明らかでした」
「だから離れる?」
「必要なら」
「必要って、誰にとって」
「都にとってです」
「またそういう顔する」
苛立った声に、ロビサも振り返った。
「どういう顔ですか」
「自分だけ納得して、先に痛いほうへ行く顔」
「意味がわかりません」
「わかれ。そういうのが一番むかつく」
思わず息を呑んだ。
腹が立つのに、どこかでその言葉へ覚えがある。レイノルデにも昔、似たようなことを言われた。見えてしまうなら見捨てない人になれ、と。見捨てないことと、自分を捨てることは違うのだと、あの人はたぶん何度も言外に教えていた。
けれど今、ロビサの頭にあったのは、もっと直接的な不安だった。
墓苑で石に触れたとき、ハディジャの横顔へ一瞬だけ別の青年の輪郭が重なった。今ここで月を見上げている顔も、ほんの角度しだいで、自分が見たこともない百年前の誰かに見えてしまうかもしれない。
「私は」
唇が乾いた。
「私は、あの人の代わりじゃない」
言ってしまってから、しまったと思った。
ハディジャの目が、わずかに見開かれる。
「……ああ」
低く返った声は、怒っているというより、思いがけないところを刺された人のそれだった。
「そうだな。俺も、誰かの生まれ変わりじゃない」
ロビサは何か言うべきだった。謝るとか、違うとか、もっと上手い説明とか。
けれど言葉はうまく並ばない。
「だから離れたいなら、勝手に決める前に相談くらいしろ」
ハディジャは立ち上がった。
「俺だって、自分の中の得体の知れない声が怖くないわけじゃない。けど、正体を知る前に背中向けたら、たぶんずっと追いつかれる」
「……」
「逃げたくないんだよ」
その一言だけが、妙にまっすぐ胸へ入った。
ロビサは返事を探したが、見つける前に局舎の中庭でざわめきが起きた。複数の足音、鎧の触れ合う音、門番の制止。二人が振り向いたときには、討鬼騎士団の外套をまとった一団が、灯りの下へ踏み込んでいた。
【続】
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