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月椿堂の中は、いつ来てもいくつもの時間が混じっている。
磨かれた木の匂い、古い紙の匂い、少し湿った布の匂い。そこに煎れたての番茶の香りまで加わると、初めて来た人でもなぜだか声をひそめたくなる。
ルチノは店の敷居をまたいだ瞬間、鼻先でわずかに息を止めた。
「変な匂いします?」
クリストルンが聞くと、彼は首を振る。
「いや。……家の匂いがする」
「うちの?」
「そうじゃない。もっと広い意味で」
言葉を探すような顔だった。
ちょうどそのとき、常連の老婦人が小さな手鏡を持ってやって来た。売るか迷っているらしい。モンジェが相手をしているあいだ、クリストルンは隣で事情を聞く。
「娘がね、もう持ってても使わないでしょって」
「でも、手放したくない?」
「若いころ、夫にもらったの。映る顔は変わっちゃったけどねえ」
老婦人は照れたように笑い、鏡を撫でる。
クリストルンはその手つきを見て、売るのが正解ではないと分かった。
「じゃあ、今日は預かりだけにしましょうか」
「預かり?」
「売るって決めるまで、少しだけ休ませるんです。物も、人も」
「そんなの、商売になるのか」
横からモンジェが口を挟むと、クリストルンは肩をすくめた。
「なるかどうかは知らないけど、この顔で帰したくない」
老婦人は目を丸くし、それから泣きそうな顔で笑った。
「あなた、お父さんに似てるのねえ」
「そうかな」
「似てる似てる。値段より先に人の顔を見るところが」
帰っていく背中を見送ったあと、ルチノがぽつりとつぶやく。
「値段が低くても、捨てられない物があるのか」
「ありますよ。いっぱい」
「うちには、そういう話をする時間がなかった」
クリストルンは振り返る。
ルチノは棚の上の古時計を見上げていた。
「社長の息子って、忙しそうですもんね」
「忙しいのは言い訳だ」
彼は静かに言った。
「家に物は多かった。けど、何を残したいかを話すことは、ほとんどなかった」
クリストルンは少し考え、それから棚の奥から欠けたマグカップを取り出した。
「これ、売れません」
「見れば分かる」
「でも、捨てません。お父さんが最初に淹れてくれたコーヒーで、私が落としたやつだから」
「思い出が強すぎるな」
「そういうものですよ、家って」
ルチノはしばらくその欠けを見つめて、ふっと笑った。
ほんの一瞬だったが、会社では見たことのない顔だった。
その笑みを見て、クリストルンは思う。
この人にも、いつか残したい匂いができるのだろうか。
そのとき、奥の台所からモンジェの大声が飛んだ。
「おーい、名字を聞いてなかったな、青年!」
ルチノの表情が、すっと引き締まった。
空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙