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#角名倫太郎
紫 憂 .
74
フロアを歩く。
グラスを下げて、新しいドリンクを運ぶ。
さっきまで賑やかだった店内も、少しずつ落ち着き始めていた。
テーブルを回りながら、私は何度か視線を感じる。
仕事をしていれば珍しくない。
見られるのは仕事のうち。
だから、気にしない。
……気にしないつもりだった。
「ナナちゃん」
呼ばれる。
高槻さんの席だった。
「お待たせしました」
「待ってないよ」
そう言いながら笑う。
「今日は忙しそうだったね」
「金曜日ですから」
「じゃあ、俺のこと忘れてた?」
「忘れてません」
「即答」
「仕事なので」
「またそれ」
高槻さんが笑う。
「便利だね、その言葉」
「便利ですよ」
「俺にも使わせてもらおうかな」
そんな他愛ない話をしていると、少し離れた席から黒服が私を呼んだ。
「ナナ、お願いします」
振り向く。
真瀬さんだった。
「あ、ごめんなさい」
私は立ち上がる。
「また戻ります」
「はいはい」
高槻さんは手を振る。
その笑顔は変わらない。
でも。
席を離れる瞬間、背中にもう一つ視線を感じた。
店の奥。
一人でグラスを傾けている人。
ここへ来るたび、周りをよく見ている人だ。
誰がどんなふうに笑って、誰がどんなふうに黙るのか。
そんなことまで見ているような目。
目が合う。
ほんの一瞬。
向こうは何も表情を変えない。
私は軽く会釈だけして、真瀬さんの席へ向かった。
「お待たせしました」
「大丈夫」
いつも通りの声。
「今日は珍しいですね」
私が座ると、真瀬さんは少し首を傾げた。
「何が?」
「二回も呼ぶなんて」
「ああ」
少し考えてから、
「タイミングが良かったから」
それだけ。
相変わらず、説明になっているようで、なっていない。
「今日、忙しい?」
「まあまあです」
「そっか」
また静かになる。
沈黙は続く。
でも、不思議と気まずくない。
そのときだった。
「すみません」
黒服が近づいてくる。
「奥のお席、ご挨拶だけお願いできますか」
私は頷く。
「すみません、少しだけ」
「うん」
真瀬さんは引き止めない。
それが、この人らしい。
席を立ち、奥へ向かう。
さっき目が合った人のテーブル。
「こんばんは」
私が笑うと、その人はグラスを置いた。
「こんばんは」
落ち着いた声。
「忙しそうですね」
「今日は少し」
「見てれば分かります」
その言い方に、思わず笑う。
「そんなに分かります?」
「ええ」
短く答えてから、少しだけ間を置く。
「さっきのお客さん」
私は一瞬だけ動きを止めた。
「楽しそうでしたね」
誰のことだろう。
真瀬さん。
それとも、高槻さん。
聞き返そうとして、やめた。
「皆さん、優しいので」
仕事の答えを返す。
その人は小さく頷いた。
「そういう返しをすると思いました」
その一言だけが、妙に耳に残った。
コメント
1件
あおいです、読ませていただきました📖 第39話、静かな緊張感がずっと続いていて、すごく引き込まれました。 特に印象的だったのは――「見てれば分かります」「そういう返しをすると思いました」という最後の人の言葉。主人公が“仕事の答え”で距離を取ろうとするのを、最初から見透かしているような視線が、少し怖くて、でも気になる存在感でした。 真瀬さんとの沈黙が「気まずくない」という一文も好きです。あの沈黙の居心地の良さと、奥の席の視線の鋭さが、同じ店内なのに別の空気を作っていて、すごく巧みだなと思いました🌷