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空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
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その夜、ルチノは社長室ではなく、自宅の書斎で父と向き合っていた。
ヴァルボンの家は静かだった。高価な家具も、整った花も、音を立てない。月椿堂のように、誰かの気配が壁に染みつく家ではないと、ルチノは昔から思っていた。
書斎の机に、例の資料を並べる。
ヴァルボンは目を通し、最後まで黙っていた。
「父さん」
ルチノはまっすぐ言う。
「これは現場の独断じゃない」
ヴァルボンは眼鏡を外し、目頭を押さえる。
「そうだ」
あまりにもあっさり認められて、ルチノは逆に言葉を失った。
「じゃあ、知っていたのか」
「全部ではない。だが、量産を急がせた判断に、経営が関わっていたことは知っていた」
書斎の時計が一つ鳴る。
「なぜ公表しなかった」
「会社を守るためだ」
予想どおりの答えだったのに、胸の奥が冷えた。
「誰のための会社だ」
「社員と取引先と、ここまで築いた信用のためだ」
「そのために、一人の職人を切ったのか」
ヴァルボンは視線を落とした。
父が年を取ったのだと、ルチノはそのとき初めて思う。大きく見えていた背中に、迷いの線が入っていた。
「正しい順番を間違えた」
ヴァルボンは低く言った。
「守るべきものはあった。だが、守り方を間違えた」
「順番、で済ませるのか」
ルチノの声が荒くなる。
「クリストルンは今、父親と同じ目に遭っている。父さんたちが片づけなかったせいで」
その名を出したとたん、ヴァルボンの表情が動いた。
「……あの娘は、よく似ている」
「誰に」
「止めるべきときに、ちゃんと立ち止まる人間にだ」
褒め言葉にも聞こえるのに、ルチノは苛立った。
「だったら守れ」
ヴァルボンは返事をしない。
長い沈黙のあと、ようやく言った。
「公表すれば、会社は大きく揺れる」
「だから何だ」
「おまえはまだ知らない。揺れた先で、何人の生活が吹き飛ぶか」
その言い方に、ルチノは息を呑む。
父はずっと、守ることと切ることを同じ手でやってきたのだ。
「……失望した」
口にすると、自分の声がやけに若く聞こえた。
だが、もう飲み込めなかった。
ヴァルボンは顔を上げる。
「ルチノ」
「父さんを尊敬していた。会社を背負う人だと思っていた。でも今は、背負ったふりをして、誰かに持たせてきたように見える」
ヴァルボンの唇がわずかに動く。言い返せないのではない。言い返してしまえば、もう戻れないと分かっている顔だった。
「家族だからこそ、聞く」
ルチノは資料を押し出した。
「真実と家族、どっちを選ぶ」
ヴァルボンは、その問いにすぐ答えなかった。
答えられなかった、と言ったほうが近い。
ルチノは静かに立ち上がる。
この家の静けさが、今夜ほど息苦しかったことはない。
扉の前で、父の声が背中に落ちた。
「家族を守りたいと思った」
ルチノは振り返らない。
「その守り方で、誰かの家族を壊した」
そう言い残し、書斎を出た。
廊下の先には明かりがついていた。エドワインの部屋だろう。
この家もまた、親子が同じ屋根の下で違う沈黙を抱えている。
ルチノは外へ出た。
夜風が頬を打つ。
家族か、真実か。
父はまだ選べていない。
けれど自分は、もう選ばないふりをしないと決めていた。