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空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
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病院へ向かう途中の小さな公園で、クリストルンはベンチに座っていた。
まだモンジェが倒れる前のことだが、疲れが溜まりすぎて、店と会社と家のどこにも気持ちを置けなくなっていた。夕方の風はやわらかいのに、胸の中だけがざらついている。
そこへルチノが現れた。仕事帰りなのだろう。ネクタイを少し緩めているだけで、いつもの堅さが少しほどけて見える。
「ここにいたのか」
「見つけるの、うまくなったね」
「君が逃げる場所は、だいたい景色のいいところだ」
クリストルンは小さく笑ったが、すぐに真顔へ戻った。
「ねえ」
彼女は正面を見たまま言う。
「あなたが味方でいてくれるのって、私のため?」
ルチノは眉を寄せる。
「それとも、お父さんへの反発?」
夕方の公園に、子どもの笑い声が遠くから聞こえる。あまりに平和で、かえって残酷だった。
「会社と家族の境目が、もうよく分からないんだ」
クリストルンは続けた。
「あなたが私を助けてくれるたび、嬉しい。でも、そのたびに、私は社長の息子に守られてるだけなんじゃないかって思う」
ルチノはすぐには答えなかった。
手元の紙袋を見下ろし、それからようやく口を開く。
「最初は、正直に言えば、父への怒りもあった」
クリストルンの肩が少し揺れる。
まっすぐすぎる答えだった。
「でも、それだけじゃここまで来ない」
ルチノはベンチの端に座った。
「君が、ちゃんと怒って、ちゃんと傷ついて、それでも誰かを助けるほうへ進むのを見た。だから放っておけなくなった」
「それ、仕事として?」
「人としてだ」
風が吹いて、クリストルンの髪が揺れた。胸ポケットに入れたリボンが、布越しに少し動く。
「私はさ」
彼女はかすれた声で言う。
「あなたの家を壊したいわけじゃない」
「壊れているなら、見ないふりをしたって元に戻らない」
ルチノの言葉は低いが、強かった。
「家族だから守りたい。でも家族だから、間違いを間違いのまま抱え込ませたくもない。……その境界線に、今ずっと立ってる」
クリストルンは横目で彼を見る。
「落ちそう?」
「かなり」
「私も」
その一言で、二人は同時に少し笑った。
ようやく息ができた気がした。
「じゃあさ」
クリストルンはベンチの木目を指でなぞりながら言う。
「私を助けるなら、途中で社長の息子に戻らないで」
ルチノはすぐ答えた。
「戻らない」
「言い切るんだ」
「君が聞いたからだ」
クリストルンは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
恋だと呼ぶには、まだ傷も迷いも多すぎる。けれど、信じてもいいかもしれないと思える誰かが隣に座っている。それだけで、夕方の色が少し違って見えた。
立ち上がると、ルチノが紙袋を差し出した。
「何これ」
「月椿堂の近くの洋菓子店。甘いものを食べろとエマヌエラさんに言われた」
「エマヌエラさん、指示が細かいなあ」
「逆らえない」
クリストルンは紙袋を受け取り、吹き出した。
「じゃあ、ありがとう。……人として」
ルチノはほんの少しだけ目を細めた。
会社と家族、正義と感情。あいまいな境界線は、まだ消えない。
それでも、その境界線の上で一緒に立ってくれる人がいるのなら、踏み外さずに済むかもしれなかった。