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静かな夜だった。日下部の部屋。カーテンが風に揺れて、部屋の中にぼやけた街の光が差し込んでいる。

遥は、ベッドの端に腰を下ろしていた。膝を抱えて、無言のまま。日下部は、机の前で何も言わず、その背中を見ていた。


「……寒くねぇ?」


そう声をかけると、遥は一度だけ首を振る。


「……日下部さ、なんで……オレのこと、何もしないの?」


投げやりにも、挑発的にも聞こえなかった。ただ、素直すぎる疑問のように、ぽつりと。


日下部は言葉に詰まる。理由はたくさんあった。だけど、うまく言葉にならなかった。


遥は立ち上がって、ゆっくり近づいてきた。日下部の膝に手を置く。


「……触れてみたいって、思ったり……しない?」


声は、静かで。寂しくて。どこか壊れかけのガラスみたいに、危うかった。


日下部はその目を見て、言った。


「思わないわけない。でも……お前の、そういう目、見たくない」


遥の手が止まった。唇がわずかに震えた。


「そういう“目”って、なに」


「……誰かに壊されるみたいな目だよ。お前、そんなの……オレの前でしなくていいだろ」


遥は笑う。引きつった、ひどく歪んだ笑みだった。


「もう、元から壊れてんだよ。全部……もう、わかんなくなってるのに」


言葉が途切れた。


そのまま、遥は膝をつき、日下部の胸に顔を押し当てた。日下部は驚きながらも、静かに腕を回す。


遥の声が、胸元で震えていた。


「……なあ、日下部。オレ……ほんとは、抱かれたくて来たんだよ」


「……」


「でも今、こわくて……。ずっと、こういうのが“愛”だって思ってたけど……。お前の前だと、全部わかんなくなる。頭ん中、ぐちゃぐちゃになる……」


日下部はただ、それを黙って受け止めた。


遥の体温は熱くて、でもその奥にある心は、凍てつくように冷たかった。



無名の灯 恋愛編

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