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#現代ファンタジー
るるくらげ
「原石だ」
ハディジャが息を呑んだ。
「ムーンストーンの……」
ロビサの足が、考えるより先に動いていた。
「待て、ロビサ!」
モンシロの制止が背を打つ。だが、あの光を見過ごせなかった。被害記録針に組み込まれた石より、ずっと生の、剥き出しの光。迷の口でそんなものが露出するのは、深部の記録が地上へ押し上げられている証拠だ。
墓石を蹴って割れ目の縁へ駆け寄った瞬間、横合いから伸びた腕がロビサの肩を掴んだ。
「行くなら一人で行くな!」
ハディジャだった。
「放してください」
「却下」
「今、揉めている場合じゃ――」
「だからだろ」
言い返す前に、地の底から吹き上がった瘴気が二人を呑んだ。
ロビサは咄嗟に、青く光る原石へ手を伸ばす。
指先が触れた途端、視界が反転した。
*
夜霧ではない。もっと古い時代の、白く乾いた月明かりだった。
ロビサは、見知らぬ石造りの回廊に立っていた。壁際には今より粗い造りの記録箱が並び、床へ散った紙片の上を、若い女が膝で這うようにして進んでいる。見習いではない。被害記録官の正装をしていた。袖口に縫い込まれた月糸の模様が、現代のものと少し違う。
女は泣いていなかった。
ただ必死に、血のついた青年の肩を支えていた。
青年の喉もとには黒い文字が絡み、皮膚の下で何か異形のものが脈打っている。鬼になりかけているのだと、見た瞬間にわかった。
「まだ名が残っている」
女が、震える息の中でそう言った。
「聞こえるなら返事をして。あなたを記す。だから、ここで奪わせない」
青年は苦しげに笑った。笑うだけで血が滲む。
「……だったら、早く逃げろ」
「嫌です」
「鬼になる前に、俺を」
「それも嫌です」
短いやり取りなのに、そこに積もった時間の長さがわかった。
この二人は、今夜初めてここで会ったのではない。何度も同じ話をして、それでも別の答えを探し続けている。
女は床へ散った羊皮紙をかき集め、壊れた鏡台の破片と、まだ磨かれていないムーンストーンの塊を並べた。
「斬れば都は少し楽になるでしょう。でも、また同じことが起きる。名前を奪う仕組みが残るなら、次の誰かがあなたになる」
「次の誰かを救うために、今の俺を捨てろ」
「あなたを数に入れない救い方なんて、救いと呼びたくない」
ロビサの胸の奥で、何かが強く鳴った。
女の横顔は見覚えがない。けれど、その言い方だけは、どうしようもなく近かった。
青年が目を閉じかける。そのたびに黒い文字が喉から頬へ這い上がる。女は記録針を握り直し、泣く代わりに、はっきりとその名を呼んだ。
音はそこで途切れた。
名そのものが、誰かに削り取られたみたいに。
次の瞬間、遠くで鐘が鳴り、回廊が青白くひび割れた。
誰かが叫ぶ。
『花嫁を選べ』
『鏡へ記せ』
『都を守れ』
違う、と女が叫び返した声だけが、最後まで残った。
*
気づいたとき、ロビサは墓苑の割れ目の縁に膝をついていた。
手の中の原石はまだ熱く、隣ではハディジャが苦しそうに息をしている。どうやら彼も瘴気の奔流をまともに浴びたらしい。だが、掴んでいた肩は離していなかった。
「見たか」
低い声で、ハディジャが言う。
「……少し」
「俺もだ」
互いの顔を見た。説明はいらなかった。百年前のどこかで、若い被害記録官が、鬼になりかけた青年を殺さずに済むやり方を探していた。斬って終わらせる以外の道を、諦めずに。
その事実だけで、ロビサの呼吸は変わった。
いままで鬼退治と呼んでいたものの輪郭が、ほんの少しずれる。ただ倒すだけでは、足りない。奪われた名へ触れない限り、何か大事なところが救われない。
「ロビサ!」
モンシロが駆け寄ってくる。後方では騎士たちが割れ目から這い上がる影をようやく押し返し始めていた。
「無事か」
「はい。……でも」
「あとで言え。まず離れろ」
班長に引き起こされ、ロビサは原石を布へ包んだ。ムーンストーンはまだ掌の中で、脈のように微かに打っている。
ハディジャは立ち上がりざま、納骨堂の暗がりを睨んだ。
「迷の口はまた開く」
「だろうな」
モンシロが低く返す。
「三日後を待ってくれそうな相手ではない」
空では雲の切れ目から、薄い月がのぞいていた。
昼の色をした空なのに、墓苑だけが夜の続きを抱えているみたいだった。
帰路の荷車で、ロビサは布越しに原石の硬さを確かめ続けた。
百年前の女が守ろうとしたもの。鬼になりかけた青年が、最後まで諦めきれなかったもの。それがまだ、この石の中に残っている。
向かいに座ったハディジャが、珍しく軽口を叩かずに窓の外を見ていた。やがて視線を戻し、ぶっきらぼうに言う。
「さっきの、誰かの恋物語に見えたか」
「……見えませんでした」
「だよな」
「命を数合わせにしないための、意地に見えました」
ハディジャは少しだけ目を丸くしてから、ふっと口元を緩めた。
「それなら、気が合う」
ロビサは返事をしなかった。
代わりに、布へ包んだムーンストーンを抱え直す。
鬼退治とは何か。その問いの形が、今日、少しだけ変わってしまった。
たぶんもう、昨日までと同じやり方では考えられない。
三日後、蒼い鏡は開く。
その前に掴まなければならない真実が、またひとつ増えた。
【終】