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忙しい夜だった。フリーが途切れず、指名も重なる。
頭の中が少しずつ、薄くなっていく感じ。
最初に席についたのは、
「無事そうだね」と言う男だった。
今日も、指名じゃない。
「無事かどうか、見に来るんですか」
私が言うと、彼はグラスに氷を足した。いつもより、少しだけ音が大きい。
「見に来てる、は違うな」
「じゃあ?」
「……確かめに来てる」
何を、とは言わない。聞かなくても分かるのが、悔しい。
「今日は、忙しそうだ」
「そうですね」
「逃げ場、なさそうだね」
その言い方が、妙に優しかった。慰めでも、心配でもない。知っている人の言い方。
呼ばれて、席を立つ。彼は引き止めなかった。
次は、若い男。名前で呼ぶ人。
「ナナちゃん、今日かわいくない?」
軽い声。軽い距離。
「それ、毎回言いますよね」
「毎回本気だし」
本気、という言葉が軽すぎて、逆に重くならない。
肩が近い。でも触れない。触れないことを、楽しんでいる距離。
「今日さ、終わったら飲みに行かない?」
「無理です」
即答だった。
少しだけ、彼の顔が曇る。それを見て、胸がちくっとする。断る痛みを、もう覚えてしまっている。
最後に、指名が入った。賢い、と言う人。
席に戻ると、彼は私を一度だけ見て、言った。
「顔、変わった」
誤魔化せない言い方だった。
「忙しいだけです」
「違うな」
「……何がですか」
「誰かに触られてる顔だ」
触られてない。身体は。でも、言い返せなかった。
「君さ」
「はい」
「選ばれる側に見えて、選んでるよね」
その言葉で、胸の奥が熱くなる。分かってほしかったわけじゃない。でも、見抜かれると、逃げ場がなくなる。
「選んでません」
「じゃあ、迷ってる」
迷ってる。それは、否定できない。
バックヤードに戻ると、ミオがいた。私を見るなり、少し笑う。
「ナナさん、今日、目が忙しいです」
「何それ」
「いろんな方向見てる」
図星だった。
終電。座席に座ると、スマホが震えた。
一件目。名前で呼ぶ人から。軽いスタンプ。
二件目。賢いと言う人から。「今日は、線を越えなかったね」
三件目。「無事そうだね」の人。「帰り、気をつけて」
画面を伏せる。
誰も、奪おうとしない。誰も、決めさせようとしない。それが、いちばん残酷だった。
窓に映る自分は、仕事の顔でも、完全な私でもない。
でも分かる。
もう、誰か一人に戻る夜は、しばらく来ない。
それでも、この揺れを、嫌だとは思えなかった。