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夜の店を出ると、空気が一段落ち着く。ヒールを脱いだわけでもないのに、肩だけが軽くなる。
終電にはまだ少し時間があって、私はコンビニの前で立ち止まった。
ガラスに映る自分は、ナナの顔をしている。でも目は、仕事のそれじゃない。
「お疲れ」
背後から声がして、振り返る前に誰だか分かった。
この時間、この距離感、この呼び方。
「まだ終電?」
「うん。今日はね」
彼はそれ以上聞かない。
私が“今日は”と言ったことにも触れない。
一緒に歩き出す。
並んでいるけれど、近すぎない。
触れようと思えば触れる距離なのに、どちらもしない。
店の話もしない。
客の話もしない。
ただ、街灯の少なさとか、風が冷たくなったこととか、どうでもいい話。
でも、その「どうでもよさ」が、なぜか続く。
少し先で、別の男と目が合う。
同じ店の人。
軽く手を上げてくる、その仕草がやけに馴染んでいて、胸の奥がちくりとした。
彼は私を見る。
何も言わないけど、見ている。
――ああ、こういうのが、増えてきた。
誰かに守られているわけでも、誰かを選んだわけでもない。
ただ、複数の視線の中に立っているだけ。
駅に着くと、改札の前で足が止まる。
「じゃ」
「うん」
それだけ。
なのに、別れるタイミングが少しだけ遅れる。
改札を通ってから振り返ると、もう彼はいなかった。
その代わり、スマホが震える。
店外の人からのメッセージ。
この人だけは、夜を知らない。
《今日は遅い?》
短い文。
でも、昼と地続きの言葉。
私はすぐには返さない。
終電の音が近づいて、ホームに風が抜ける。
――恋愛って、もっと分かりやすいものだと思ってた。
でも今は、選ぶ前に、静かに絡まっていく感じがする。
誰の手も取っていないのに、
もう、一人きりでもない。
電車が来る。
私は乗る。
明日も、たぶん、同じ日常が続く。
でも、確実に何かが始まっていることだけは、
もう、否定できなかった。