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教室の空気は、もう「空気」と呼ぶにはあまりにも濁っていた。黒板に向かう教師の背中の下で、誰もが虚ろな目をしてうつむいている。ただ、それは罪悪感でも自己保身でもなく、「誰が次に崩れるか」を待っている視線だった。
遥と日下部は、最前列の中央。もっともよく見える場所。逃げ場のない席に、まるで「晒し台」のように据え置かれている。
チャイムが鳴った。だが、教師は教科書を閉じることもなく、ゆっくりと後ろを振り返った。
「……さて。今日は“反省会”をしましょうか」
その言葉に、生徒たちの表情が一斉に変わる。期待と高揚。いや、もっと冷たいもの――狩りに向かう獣の顔だった。
教師は当たり前のように言った。
「日下部。遥。前に出て」
ふたりが立ち上がるのを、誰も何も言わない。日下部は椅子の脚を引きずりながら無言で前に出る。遥も、それに続く。足元はふらついていた。
「きみたちはこのクラスに、迷惑をかけたよね?」
問いかけではなかった。教室に沈黙が満ちる。
「声、出せる?」
教師がそう言うと、後ろの女子生徒の一人が声を上げた。
「“死にたいです”って、ちゃんと言わせましょうよ、先生」
笑いが漏れる。教師は首を傾げてみせた。
「じゃあ……まずは遥から。どうぞ?」
遥は無言のまま立ち尽くしていた。肩が微かに震えていたが、泣いているわけではなかった。言葉が喉に絡みついて、出てこないだけだった。
日下部が一歩、前に出る。
「やめろ」
その声が、ひどく掠れていた。
教師は笑った。
「やめる? 何を?」
「……やめろって言ってんだよ……ふざけんなよ、こんなの……!」
生徒たちのどよめきの中、日下部が遥の前に立つ。だが、その肩に手がかかったのはその直後だった。
体育会系の男子生徒が無言で日下部の腕をつかみ、床にねじ伏せた。乾いた音が、教室に響いた。
「“死にたい”って、言わせてくださいよ」
今度は別の男子が、遥の口元にマイク代わりのスマホを近づけた。録音ボタンが赤く点灯していた。
「さあ、どうぞ? あなたの“本音”を」
遥はその光を見つめながら、唇を震わせた。
「……」
だが、出てこない。
出したくても、出せない。
叫びたくても、声が出ない。
「声、出せよ。お前の“ため”なんだよ?」
そう言って、誰かが遥の背中を叩いた。強く。強く。言葉を“出す”ために。
「死にたいって言えば、許してやるよ?」
「それとも、泣くか? 泣けよ。泣きながら言え」
「どうせ、生きてる意味なんか、ねぇんだろ?」
声が重なっていく。包囲するように、教室全体が、遥の内側に押し寄せてくる。
遥の口が、ついに、開いた。
「……しに、たい……」
小さな声だった。誰にも届かないような、喉の奥のざらついた音だった。
けれど、十分だった。録音は止まり、拍手が起きた。
「よく言えました」
教師がそう言って微笑む。
遥は、そこで崩れた。
まるで骨の抜けた人形のように、膝から落ち、床に両手をついたまま、何も言わなかった。いや、もう「言う」言葉など、残っていなかった。
日下部は、腕をねじ上げられたまま、遥を見ていた。
目を逸らせなかった。
この地獄に、一緒に沈むしか、もう方法はなかった。