文化祭の最終日。夕暮れとともに校舎が色づきはじめ、出し物のライトが紙飾りを照らし返す。
雨上がりの蒸気がアスファルトを這い、夜に溶けていく匂い。
晴弥は人混みの端を歩いていた。
少し離れたところで、朔が友達と話しているのが視界に入る。
声は届かないが、朔の笑い方はすぐに分かる。
「……なんだよ、あいつ」
言い方は乱暴なのに、その目は離せない。
偶然を装って近づこうとした瞬間、朔がこちらに気づいた。
目が合う。
晴弥は反射的に逸らしかけて――逸らしきれなかった。
朔が友人に軽く手を振って別れ、真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
「晴弥!」
呼ばれると、それだけで何かが胸の奥で熱くなる。
困ったものだと自分に吐き捨てながら、晴弥は気づかれないよう深呼吸をした。
朔は、あの雨の日以来、笑顔を隠さなくなった。
照れ隠しをしながらも、晴弥の前ではちゃんと笑ってくれる。
「一緒に回んない? ……ダメ?」
一拍置いて、晴弥は短く答える。
「別に。暇だから」
本当は、誘われるのを待っていたくせに。
朔は嬉しそうに目を細め、屋台の並ぶ方へ歩き出した。
二人の間に、以前のようなぎこちなさはもうない。でも、まだ触れたら壊れてしまいそうな距離感が確かにあった。
ヨーヨー釣りを見た朔が目を輝かせる。
「子供みたいだから、やめろ」
「晴弥もやろ? 一緒に」
「断る」
結局、晴弥もやる羽目になった。
無愛想に釣り上げたヨーヨーを朔に押しつけると、
「ありがと」
朔は小さく笑って、それを大事そうに持ち歩いた。
校庭に設置された特設ステージから音楽が流れ出す。
カラフルな光が、夜の校舎に反射して揺れていた。
ふと横を見ると、朔が少し距離を取って歩いていた。
周囲の目を気にしているように……いや、違う。
自分が晴弥に迷惑をかけないよう、そっと配慮している。
それが胸の奥で痛んだ。
「あのさ」
晴弥は立ち止まり、周囲を確認してから朔の腕を掴んだ。
「ついてこい」
「えっ、どこに?」
戸惑う朔を引いて、校舎裏の庭へと向かう。
夜風と、まだ乾ききらない雨の匂い。
遠くに聞こえる笑い声と音楽。
外灯の下で足を止める。
人気はない。
「……無視すんなよ」
突然の言葉に、朔は瞬きをした。
「無視してないよ?」
「さっき、距離取ってただろ」
朔は慌てて首を振る。
「違っ……嫌われたくなくて」
その言葉が、まっすぐに晴弥の胸を撃ち抜いた。
嫌われたくない?
それは自分も同じだ。
晴弥は、息を飲んだまま朔を見る。
喉がひりつく。
言語化できない焦燥が全身を走る。
気づけば――手を伸ばしていた。
朔の手首を掴む。
熱い。
鼓動が伝わる。
「……離れんなよ」
小さく、深く、晴弥は言った。
朔の呼吸が止まったように見えた。
指先が震えながら、晴弥の手を包む。
そしてそっと、指と指が固く絡む。
ライトに照らされ、影が重なる。
雨上がりの湿気が夜空に漂い、二人の体温を曇らせていく。
世界は騒がしいのに、この場所だけが異様に静かだ。
朔は俯いたまま、ぎゅっと手を握り返した。
「……離れないよ」
ただの約束なのに、その言葉は告白より重かった。
晴弥は照れたように顔を背ける。
「馬鹿。声でけぇ」
「……ごめん」
「謝んな」
短い言葉の奥底に、たくさんの感情が滲んでいる。
校庭の光が遠く揺れる。
手の温度が、徐々に安心へと変わっていく。
晴弥は深く息を吐いた。
(怖いけど……)
(もう逃げない)
朔は隣で、晴弥の歩幅に合わせて歩き出す。
指先はずっと繋がれたまま。
夜風が通り抜け、雨上がりの匂いが二人の間を満たす。
その夜、まだ言えない言葉はあったけれど、
確かに一歩だけ、二人は前へ進んだ。







