テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
更衣室で、ドレスを脱いでいるときだった。
ファスナーを下ろす音に混じって、ため息が聞こえた。
「私、今月で辞めるんだ」
独り言みたいな言い方。誰かに止めてほしいわけでも、報告したいわけでもなさそうだった。
「そうなんだ」
驚いたふりはしない。この店では、辞める話は珍しくない。
「疲れた」
それだけ言って、彼女はブラシで髪をとかす。理由を説明しないのが、逆にリアルだった。
指名が取れないとか、客がうざいとか、そういう話じゃない。ただ、続ける気力がなくなった顔。
「次、何するの?」
聞くと、少しだけ考えてから答える。
「昼の仕事。普通のやつ」
普通、って言葉を使うとき、少しだけ照れる。
「彼氏できたとかじゃないんだ」
「ないない。むしろ無理」
即答だった。
「ここにいるとさ、恋愛の感覚おかしくなるじゃん」
その言い方に、思わず笑う。
「分かる」
誰かに好かれている状態が、常にある。好かれているふりも、させている自覚もある。その中で、本物を区別するのは、だんだん難しくなる。
「嫌いになったわけじゃないんだよ。この仕事」
彼女はロッカーを閉めながら言う。
「ただ、好きでもなくなった」
それが、一番辞める理由として強い。
ロッカーの前で、少しだけ沈黙が落ちる。
「向いてると思う?」
急に聞かれて、答えに詰まる。
「何が」
「私」
向いてるかどうかなんて、結果論だ。
「向いてたと思うよ」
過去形にして答えると、彼女は小さく笑った。
「そっか。じゃあいいや」
送別の話もしない。連絡先を改めて交換することもない。次に会わなくなることを、もう受け入れている感じ。
営業後、裏口で一緒に外に出る。
「頑張ってね」
そう言われて、少しだけ胸が詰まる。
「そっちも」
別れるとき、手は振らない。軽く会釈するだけ。
一人で帰り道を歩きながら考える。
ここを辞める子は、だいたいこんなふうに静かにいなくなる。揉めることも、泣くこともなく、ただ日常から消える。
続けている自分が、特別強いわけじゃない。ただ、まだ辞める理由が、はっきりしていないだけ。
スマホを見る。営業用の通知が増えている。
返さなきゃ、と思う。でも、少しだけ後回しにする。
今日、辞めると決めた人がいて、今日も働いている私がいる。その差は、ほんの少しのタイミングだけ。
それが、夜の仕事の一番現実的なところだと思った。