テラーノベル
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営業の合間。
少しだけフロアが静かになった。
団体が帰った後の、あの中途半端な時間。
忙しくもない。
暇でもない。
一番、気が抜ける。
氷を替えて、伝票を確認して。
戻ろうとしたところで、
「お疲れ」
声がする。
振り向く前に、誰か分かる。
よく笑う人。
最近は、席につく前から声をかけてくる。
「まだいたんですか」
「ひどいなあ」
笑いながら肩をすくめる。
「さっき帰るみたいなこと言ってませんでした?」
「言った」
「帰ってないじゃないですか」
「延長しちゃった」
悪びれない。
「誰のせいですか」
「さてね」
そう言って笑う。
私もつられて笑ってしまう。
この人と話していると、笑う回数が増える。
増えるけど。
それだけ。
少なくとも、そう思っている。
「今日、機嫌いい?」
「普通です」
「その普通、怪しいんだって」
「いつも言ってますね」
「だって当たるもん」
適当な会話。
適当なのに、嫌じゃない。
そのとき。
「ナナ」
声。
私は反射みたいに振り返る。
少し離れた席。
口数の少ない人。
いつもの席。
いつもの距離。
目が合う。
「忙しい?」
「今は大丈夫です」
そう答えながら、
「すみません」
私は目の前の人を見る。
「行ってきます」
「どうぞ」
笑顔。
いつも通り。
でも。
立ち上がる瞬間。
二人の視線が、ほんの一瞬だけ重なった。
知らない同士。
たぶん。
それなのに。
何となく、空気が変わった気がして。
私は、考える前に席へ向かった。
「お待たせしました」
「待ってないよ」
口数の少ない人は、小さく笑う。
グラスを作る。
氷の音。
お酒の色。
いつもの流れ。
「さっきの人」
珍しく、向こうから話を振ってきた。
「お友達?」
私は少しだけ考える。
「違います。お客さんです」
「そっか」
それだけ。
それだけなのに。
なんとなく。
少しだけ。
安心したような顔に見えた。
気のせいかもしれない。
「珍しいですね」
「何が?」
「そういうこと聞くの」
すると。
また少し笑う。
「そう?」
「うん」
「じゃあ、珍しい日なんだと思う」
曖昧な返事。
この人は、たまにそういう言い方をする。
答えになってるようで、なってない。
なのに。
嫌じゃない。
困る。
こういうのが、一番困る。
「そういえば」
グラスを置きながら、
「この前、名字教えてもらいましたよね」
「うん」
「まだ慣れないです」
「何が?」
「真瀬さん」
自分で言って。
少しだけ変な感じがした。
今までずっと、この人、とか、あの人、とか。
そんなふうに考えていたから。
真瀬さん。
口にすると、急に輪郭ができる。
「そのうち慣れるよ」
「ですかね」
「うん」
また静かになる。
でも。
その沈黙が嫌じゃないことを、私はもう知ってしまっていた。
コメント
1件
第36話、読みました。 この「適当な会話なのに嫌じゃない」っていう空気感、めちゃくちゃ好きです。「誰のせいですか」「さてね」からの笑い合い、そして真瀬さんの「待ってないよ」——どっちも距離感が絶妙で、ナナの心の動きがじわじわ伝わってきます。 「口にすると急に輪郭ができる」って表現、すごくわかります。名前ってそれだけで特別になるんだよなあ。沈黙が嫌じゃなくなってるナナの変化、静かに温かくて、続きが気になりすぎます🔥