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私のコートとバッグは宗輔が受け取ってきてくれた。自分のジャケットと交換してコートを着せ掛けてくれてから、彼は私の肩を抱いてホテルの駐車場へ向かう。
乗り慣れた彼の車のシートに背中を預けて、少しだけ落ち着きを取り戻す。しかし、体の所々に残る大木の手や体の感触がふと思い出されて、嫌悪感のために鳥肌が立つ。大木の唇が触れた自分の唇をハンカチで何度も何度も拭うが、その時の気持ち悪さはなかなか消えない。
「俺の部屋に来たらいい。一人でいるよりは安心できるだろう?」
「一緒にいてくれるの?」
「当たり前だろ。怖かったよな。もう大丈夫だから」
「うん……」
彼の優しい言葉に、私は深々と息をついた。
宗輔は部屋に入るとすぐに部屋を暖め、私が入浴できるようにと準備を整え始めた。
少しだけ彼の部屋に洋服などを置かせてもらっている。その中から取り出した自分のルームウェアを持って浴室へと向かった。
おぞましいすべての感触を洗い流すように、その記憶を消し去るように、そして宗輔の香りをまとうように、私は彼のシャンプーとボディソープでしつこいくらいに全身を洗った。ゆっくりとバスタブに身を沈めているうちに、心が解けていく。
浴室を出てリビングに入って行くと、宗輔は電話中だった。私に気づいて電話を切る。
「親父からだった」
私は彼の言葉の続きを待つ。
「あの後、本部長がすぐに本社に連絡を入れたそうだ。処分の決定は週明けになるらしいけど、恐らくは懲戒処分だろうって。証人もいるし、言い逃れはできないだろうからな」
「……でもあの人プライドが高いから、自分から退職願を出すんじゃないかな」
「それは会社がさせないんじゃないか」
宗輔は突っ立ったままの私に静かに訊ねる。
「少しは落ち着いたか」
「えぇ……」
「北山さんにも連絡を入れておくといい。心配してるだろうから」
「うん」
頷いた後、彼から少し離れた場所に腰を下ろした。抱えた膝に目を落とす。
「五年前のことは消化できていたと思っていたの。だけど、だめだった。あの人に触れられた途端、あの時の恐怖を思い出して逃げきれなかった。ごめんなさい……」
「どうして謝るんだよ。佳奈は被害者だ」
「だけど、私が油断しなかったら……。もっと早く支店長たちに相談していれば、あんなことは起きなかったかもしれない……」
「もしかして、さっき本部長に話したことの他にも、何かあったのか?」
「それは……」
「今忙しくて、って俺、佳奈に愚痴をこぼした時があったよな。まさかあの頃か?佳奈のことだから、俺に気を遣って何も言えなかったんじゃないのか?北山さんたちにも黙っていたってことか?」
私はうつむいた。
「責めてるわけじゃないからな。大事にするって言ったのに、気づいてやれなかった自分に腹が立つんだ。……ごめんな」
「謝らないで。久美子たちにも心配してもらってばかりで悪いなって思ったし、忙しいあなたに私の心配までさせるのは嫌だって思った。黙っていた私が悪いの」
「佳奈は何も悪くない。それに、君がそう考えてしまったのも分かる。ただ、佳奈は言葉を飲み込みすぎるところがある。だからこそ約束してほしい。少なくとも俺にはなんでも話してほしい。俺にとっての優先順位は、いつだって佳奈が一番なんだ」
私を一番だと言ってくれた彼の言葉を噛みしめ、この人の傍にいられることを幸せに思う。しかしふと不安が浮かぶ。今回の一件で、宗輔の相手として私は相応しくないと、彼の父に判断されてしまったのではないか、ということだ。
「親父はさ、あの状況からすぐに全部察したらしいよ。あの人、だてに年喰ってるわけじゃないんだな。そうだ、伝言があったんだ。佳奈はもう娘同然だし、それでなくても自分は味方だ、とにかく娘は佳奈以外には考えられない、だってさ」
私の不安を見透かしたかのような宗輔の父の言葉に胸がいっぱいになった。安堵に涙がこぼれそうになる。
「念のため言っておくけど、俺も同じだから。俺は佳奈以外は愛せない。だから不安になったり、変なことを考えたりするんじゃないぞ」
「うん……」
「そもそもだ」
宗輔は眉間にしわを寄せる。
「佳奈とのことをもっと早く確かなものにして婚約を公にしておけば、こんなことにはならなかったかもしれないんだよな」
「それでも、今回のことが起きなかったとは言い切れないと思うの」
「どれも今さらな話だな。……ところで、あの時は警察を呼ばない判断をしてしまったけど、被害届はどうする?」
「最悪のことはなかったし、もう忘れたいから、いい」
「出さないのか」
「えぇ、もういいの」
「そうか、佳奈がそう言うんなら……」
彼は肩で大きく息をつく。
「とにかく良かった。君が怪我もなく今こうして俺の傍にいてくれて、本当に……」
彼の手が私の方へと伸びた。しかし思い直したように、すぐにその手を自分の足の上に戻してしまう。
「あの時ホテルでは、ただただ心配で何も考えずに触れてしまったけど、大丈夫か。俺のこと、怖くない?」
「そんなこと、思うはずがないわ。あの人とあなたは全然違うのよ。宗輔さんは、私にとって特別な人なんだから」
私は彼の隣へ座り直し、自らその手を取って頬を寄せた。
彼はほっとしたように息をつき、私を抱き寄せる。
「なぁ、一緒に住まないか」
「え?」
「今日のようなことはもう起こらないと思うけど、心配なんだ。君が笑っているかどうか、無事に過ごしているかどうか、毎日確かめたい」
「宗輔さん……」
「順序が違うってことは分かってる。だから、結婚まではこのままがいいのなら、そう言ってくれて構わない。これは俺のわがままだから」
頭の上で響く彼の声と言葉に、心が満たされる。声を震わせながら私は言った。
「いつ、引っ越してきたらいい?」
「すぐにでも」
私は宗輔の腕にきゅっとつかまり、ためらいがちに言った。
「あのね。……今日の嫌な記憶も感触もなくなるくらい、あなたのことしか考えられないようにしてほしいの」
「君がそう望むなら……」
力強く抱き締められて、胸の奥からこみ上げてくるものを感じる。
「佳奈のすべてを俺で満たしてやるよ」
その腕の中、彼の匂いと温もりに包みこまれてこれ以上ないほどの安心感を覚える。涙があふれて頬を伝い落ちた。