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空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
開発室の隅に、小さな仮組みのぬいぐるみが置かれた。
まだ布も仮、音声部品も試験用。見た目は商品にはほど遠い。それでもクリストルンにとっては、頭の中にしかなかった考えが初めて手触りを持った瞬間だった。
「壊すなよ」
ディトはそう言って、仮パーツを耳の内側に差し込む。
「録音は三秒。長くは入らん」
「三秒あれば十分かも」
「感想は使ってから言え」
試用に協力してくれたのは、前回の座談会に来ていた親子の一組だった。
父親は少し照れた顔で録音ボタンを押し、低い声で吹き込む。
「おはよう。ちゃんと見てるよ」
録音が終わる。
クリストルンの心臓まで止まりそうになる。
父親がぬいぐるみを息子に渡し、耳を押してみるよう促した。
小さな指が布越しのスイッチを押す。
次の瞬間、たどたどしい音声が流れた。
おはよう。ちゃんと見てるよ。
男の子は、一度目を丸くした。
それから、光が顔いっぱいに広がる。
眩しいくらいの笑みだった。
泣くでもなく、飛び跳ねるでもなく、ただ、信じられないものを受け取ったように、まっすぐ父親を見上げる。父親のほうが先に目元を押さえた。
「聞こえた」
男の子が言う。
「うん」
「また押していい?」
「何回でもいい」
会議室の端で見ていた社員たちが、そろって黙った。
言葉より先に、答えがそこに出ていた。
エマヌエラが静かに息を吐く。
「これが企画の芯ね」
クリストルンは返事もできない。
胸がいっぱいで、ただうなずくしかなかった。
横でディトがぼそりと言う。
「安全面はまだ山積みだ」
「はい」
「量産なんてまだ先だ」
「はい」
「だが……」
そこで言葉が切れる。
クリストルンが見ると、ディトは仏頂面のまま視線をそらした。
「泣けるだけ、ではないらしい」
その一言で十分だった。
だが、部屋の入口に立つエドワインの目だけは冷えていた。
彼女は試作品ではなく、周囲の反応を見ている。
その視線に気づいたとき、クリストルンの背中を薄い寒気が走った。
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