テラーノベル
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美咲がその人を意識し始めたのは、何か特別なことがあった日ではなかった。
少なくとも、そのときの美咲はそう思っていた。
花火部の活動が終わった放課後、忘れ物を取りに戻った美咲は、部室の前で直人と鉢合わせた。
「あれ、美咲。まだ帰ってへんかったん?」
「ノート忘れてん。今日、ほんま忘れ物多いわ」
「いつものことやろ」
「直人先輩まで言うんですか!」
「事実やからなあ」
直人は笑いながら、開けたままになっていた部室の扉を押さえた。
美咲が机の上からノートを取ると、直人は手に持っていた資料を鞄にしまった。
「もう帰るんですか?」
「うん。先生に頼まれてた資料も渡したし、今日は終わり」
「じゃあ、途中まで一緒に帰りません?」
「ええよ」
二人は並んで校舎を出た。
直人は三年生で、美咲より一つ年上だった。花火部の部長として、活動の予定を組んだり、先生との連絡を引き受けたりしている。誰かが困っていれば自然に手を貸すが、必要以上に世話を焼くことはなかった。
美咲にとっても、頼りになる先輩だった。
それ以上のことは、特に考えていなかった。
「進路、決まりました?」
美咲が聞いた。
「まだ細かいところはな。行きたい方向は決めてるけど」
「ええなあ。私、全然決まらへんねん」
「焦らんでもええんちゃう? 決めたあとで変わることもあるやろうし」
「直人先輩でも、迷うことあるんですね」
「俺を何やと思ってんねん」
「何でもちゃんとできる人?」
「そんなわけあるか。失敗もするし、分からんこともあるで」
直人は苦笑した。
「部長やからって、全部分かってるわけちゃうしな。分からんかったら調べるし、できへんかったら誰かに聞く。それだけや」
美咲は、なるほど、と思った。
直人はいつも落ち着いていた。活動中に予定が変わっても慌てないし、誰かが失敗しても必要以上に責めない。だから、何でも一人でできる人なのだと思っていた。
けれど、そうではないらしい。
「……なんか、直人先輩ってええですね」
「何が?」
「そういうとこ」
「どこやねん。ちゃんと説明してくれへんと分からんわ」
「うーん。今の話、何かええなあって思っただけです」
「感想がふわっとしすぎやろ」
直人が笑う。
美咲も笑った。
そのときは、それだけだった。
帰り道が同じ方向だったから一緒に歩いた。進路の話をした。くだらないことで笑った。
それだけのことだった。
なのに、翌日になっても、美咲はその会話を思い出していた。
「なあ、美咲」
昼休み、紗季が弁当を食べながら美咲の顔を覗き込んだ。
「昨日、何かあった?」
「何で?」
「今日、ずっと機嫌ええやん」
「いつもやろ?」
「いや、いつもより妙ににやにやしてる」
「にやにやしてへんわ!」
美咲は慌てて頬を押さえた。
紗季はその反応を見て、目を細めた。
「……誰かと何かあったん?」
「別に何もないって!」
「ふうん」
紗季はそれ以上追及せず、卵焼きを口に入れた。
しかし、その何も聞かない態度が、かえって美咲を落ち着かなくさせた。
「……紗季」
「何?」
「好きな人って、どうやったら分かるん?」
紗季の箸が止まった。
「え?」
「いや、一般論として!」
「一般論?」
「そう! 何となく気になっただけやって!」
紗季はしばらく美咲を見つめていたが、やがて口元を緩めた。
「美咲、好きな人できたん?」
「まだ分からへん!」
「まだ?」
「……あ」
美咲は口を押さえた。
紗季はとうとう笑い出した。
「何やねん、もう! 誰なん?」
「言わへん!」
「ええやん、うちら友達やろ?」
「友達やから言われへんこともあるねん!」
「それ、どういう理屈やねん!」
二人は笑いながら言い合った。
けれど、紗季は美咲が本気で困っていることにも気づいていた。
いつもなら、好きな芸能人の話でも、格好いいと思った人の話でも、美咲は遠慮なく口にする。なのに今回は、名前を出すことすらためらっている。
紗季は少し声を落とした。
「なあ。好きかどうか、今すぐ決めんでもええんちゃう?」
美咲は顔を上げた。
「そうなん?」
「気になるなら、気になるでええやん。仲良くなりたいなら、仲良くなったらええし。名前つけるんは、あとでもええやろ」
「……そっか」
美咲は弁当箱に目を落とした。
名前をつけたら、何かが変わってしまう気がしていた。
先輩として好きなのか。
人として尊敬しているだけなのか。
それとも、会えると嬉しくて、話せると楽しくて、何気ない言葉を何度も思い返してしまうのは、別の気持ちなのか。
まだ、自分でも分からなかった。
ただ、昨日より今日のほうが、直人のことを考える時間が増えている。
それだけは確かだった。
花火部の活動では、次の地域イベントに向けた準備が進んでいた。
美咲は展示用の資料をまとめ、紗季は来場者に配る案内を確認している。亮介は会場の配置図を見ながら、何やら難しい顔をしていた。
「……これ、どう置くんが正解なん?」
「何が?」
美咲が覗き込む。
「机の配置。通路を広く取らなあかんのは分かるけど、展示も見やすくしたいやん」
「直人先輩に聞いたら?」
「今、先生と打ち合わせしてるねん」
「ほな、終わるまで待ったらええやん」
「いや、できるとこまで考えたいねん」
美咲は少し驚いて、亮介の顔を見た。
普段はふざけてばかりいる亮介も、こういうときは真剣だった。イベントに来る人が困らないように、どうしたら展示を楽しんでもらえるかを考えている。
「……亮介って、ちゃんと考えることあるんやな」
「おい、どういう意味や!」
「いつもふざけてるから」
「ふざけてるだけで生きてるわけちゃうねん!」
紗季が横から口を挟む。
「それは知ってるけど、授業中に寝るのはやめたほうがええで」
「まだその話するんか!」
美咲は笑った。
そこへ、打ち合わせを終えた直人が戻ってきた。
「配置図、考えてくれてたん?」
亮介は少し照れくさそうに紙を差し出した。
「まあ、できる範囲で。まだ分からんとこあるけど」
直人は図を確認し、いくつか質問をしたあと、頷いた。
「ええと思う。ここだけ、もう少し通りやすくしたらいけそうやな」
「ほんまですか?」
「うん。助かるわ、ありがとう」
亮介は一瞬、きょとんとした。
それから、いつもの調子で笑った。
「いやあ、俺もやればできる男やからな!」
「褒めたらすぐ調子に乗るなあ」
紗季が呆れる。
「ええやん、たまには褒められても!」
美咲も笑っていた。
けれど、直人が亮介に「ありがとう」と言ったとき、美咲はその声を意識して聞いてしまった。
特別な言い方をしたわけではない。
いつもと同じ、自然な声だった。
それなのに、胸の奥が小さく動いた。
自分も、あんなふうに頼られたいのだろうか。
それとも、直人に認めてもらいたいのだろうか。
美咲は自分の気持ちが分からなくなり、手元の資料に視線を落とした。
「美咲、そっちの写真、こっちに回してくれる?」
直人に声をかけられ、美咲は顔を上げた。
「は、はい!」
返事が少し大きくなった。
亮介が振り返る。
「何でそんな元気やねん」
「普通やろ!」
「いや、今のは絶対おかしかったで」
「おかしくない!」
「二人とも、作業進めてや」
紗季に注意され、二人は慌てて手を動かした。
美咲は資料を渡すとき、直人の指先が紙の端に触れたことにまで気づいてしまった。
ほんの一瞬のことだった。
そんなことを気にする自分が恥ずかしくなり、美咲は顔を背けた。
もしかして。
いや、でも。
頭の中で言葉がぐるぐる回る。
確かめる勇気はなかった。
活動が終わり、帰り支度をしていたときだった。
紗季が鞄を肩にかけながら、美咲の隣に立った。
「なあ、美咲」
「……何?」
「直人先輩やろ?」
美咲は固まった。
紗季は声を立てて笑うのをこらえていた。
「やっぱりそうなんや!」
「ちょ、声大きいって!」
「ごめんごめん。でも、分かりやすすぎるねん」
「何が!」
「直人先輩が来るたびに、急に返事が元気になるとことか。話しかけられたら、ちょっと慌てるとことか」
「そんなことしてへん!」
「してるって」
美咲は反論しようとしたが、思い当たることが多すぎて、言葉が続かなかった。
紗季はからかうのをやめ、少しだけ真面目な顔になった。
「ええやん。好きなんやったら」
「……まだ、好きかどうか分からへん」
「そっか」
紗季はそれ以上、無理に答えを求めなかった。
「でも、気になるんやろ?」
美咲は小さく頷いた。
「……うん」
口にした途端、顔が熱くなった。
誰かに言ったのは初めてだった。
まだ自分でも確信がない。直人にどう思われているかも分からない。これから何かが始まるのか、それとも今までどおり先輩と後輩のままなのかも分からない。
それでも、気になる。
もっと話したい。
直人がどんなことを考えているのか知りたい。
卒業したあと、どこへ進むのか。何が好きで、何を大切にしているのか。自分の知らない一面を、もう少し知りたい。
そう思っている自分に気づくと、胸の奥がくすぐったくなった。
「……何か、変な感じやわ」
美咲が呟く。
「何が?」
「今まで普通に話してたのに、急に意識してまうねん。別に、直人先輩は何も変わってへんのに」
紗季は頷いた。
「自分の気持ちが変わったんかもしれへんな」
美咲はその言葉を、ゆっくりと受け止めた。
直人は何も変わっていない。
いつもどおり落ち着いていて、困っている人がいれば手を貸して、みんなの話を聞いてくれる。
変わったのは、自分のほうだった。
今までなら何とも思わなかった言葉を、帰り道に思い出す。
何気なく向けられた笑顔を、家に帰ってからも覚えている。
次に会える日を、以前より少しだけ楽しみにしている。
その気持ちに、まだ名前をつけるのは怖かった。
けれど、名前をつけなくても、そこにあるものは消えない。
「……紗季」
「ん?」
「これ、誰にも言わんといてな」
「分かってるって。本人に言うたりせえへんから安心し」
「絶対やで!」
「はいはい」
紗季は笑いながら、美咲の肩を軽く叩いた。
二人は並んで部室を出た。
校舎の窓から差し込む夕日が、廊下を橙色に染めていた。遠くから運動部の掛け声が聞こえ、どこかの教室では、まだ誰かが笑っている。
いつもと同じ放課後だった。
ただ、美咲の中では、小さな変化が始まっていた。
明日、直人に会ったら、どんな顔をすればいいのだろう。
今までどおり話せるだろうか。
そんなことを考えている自分がおかしくて、美咲は一人で笑ってしまった。
「何笑ってんの?」
紗季が不思議そうに聞く。
「何でもない!」
「怪しいなあ」
「ほんまに何でもないって!」
美咲は空を見上げた。
夕焼けの向こうには、まだ花火のない空が広がっていた。
いつか、好きな人と一緒に花火を見られたら。
そんな想像が、ほんの一瞬だけ頭をよぎった。
美咲は慌てて首を振った。
まだ、何も始まっていない。
相手が自分をどう思っているかも分からない。
それでも、誰かを好きになるということは、こんなにも何気ない日常を変えてしまうのかもしれなかった。
その夜、美咲は机の上に置いた花火部の写真を見た。
写真の中では、直人も紗季も亮介も、いつもと同じ顔で笑っている。
美咲は写真を手に取り、少しだけ眺めたあと、元の場所に戻した。
明日も会える。
明日も、いつものように話せる。
そう思うと、自然に笑みがこぼれた。
まだ恋と呼ぶには、少し照れくさい。
けれど、美咲の心には、誰にも知られていない小さな秘密ができていた。
それは、彼女が初めて誰かを特別に思い始めた、静かな始まりだった。
コメント
1件
わあ…第11話、読み終えたよ〜!😭💕 美咲の気持ちが静かに変わっていく様子がめっちゃリアルで、ドキドキしながら読んだ!! 「直人先輩」っていう呼び方が、頭の中でリフレインしてる感じ、何か分かる…!自分もそういうことあるからすごく共感した。 紗季の「名前つけるんはあとでもええやろ」ってセージすぎて泣ける。親友の優しい距離感がいいね⋆♡ それに亮介が真剣に配置図考えてて直人に「ありがとう」って言われるシーン、美咲の胸が小さく動く描写が繊細で、もう…恋の始まりってこういう瞬間なんだなあって。 最後の「明日も会える」で終わる余韻が最高。続き気になりすぎるから次も絶対読むよ〜!!🌸
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