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直人と二人きりで話すと、以前より少しだけ緊張するようになった。
美咲は、それを紗季に知られないようにしていた。
もっとも、紗季にはとっくに気づかれている。何か言いたそうにこちらを見るたび、美咲は「何もないって」と先回りして、話を終わらせていた。
そんなある日の放課後。
花火部の活動を終えた美咲は、部室に忘れた筆箱を取りに戻った。中には誰もいないと思っていたが、扉を開けると、直人が一人で資料を整理していた。
「あれ、直人先輩。まだ帰ってへんかったんですか?」
「先生に頼まれてた分が、もうちょっと残っててな。美咲こそ、どうしたん?」
「筆箱忘れてもうて」
「またか」
「今日は筆箱だけです!」
「今日は、ってことは、ほかの日は違うんやな」
「もう、先輩まで!」
美咲は笑いながら、自分の机の上を探した。
筆箱は資料の陰に隠れていた。見つけて鞄に入れれば、それで帰るつもりだった。
けれど、直人が一人で作業している姿を見ていると、何となく帰りづらくなった。
「……何か手伝いましょうか?」
直人が顔を上げた。
「ええの? もう帰るんかと思ってた」
「別に急いでへんし。何したらええですか?」
「ほな、この資料を日付順に並べてもらえる? 終わったら確認するから」
「分かりました」
美咲は向かいの机に座り、資料を受け取った。
紙を一枚ずつ確認しながら、日付順に並べていく。最初は活動に関係する話をしていたが、作業が進むにつれて、自然と会話は別の方向へ流れていった。
「直人先輩、卒業したら忙しくなるんですか?」
「まあ、今よりは忙しくなると思うで」
「そっか……」
答えを聞いた途端、美咲の手が少しだけ止まった。
直人が卒業するまで、あと一年もない。
今は部室へ行けば会える。活動の日には一緒に過ごせる。分からないことを聞けば、いつものように答えてくれる。
けれど、卒業したらどうなるのだろう。
「美咲?」
「あ、何でもないです」
「何でもない顔には見えへんけど」
直人は資料を机に置いた。
「何か気になることでもあるん?」
美咲は迷った。
本当は、聞いてみたかった。
卒業しても会えるのか。
これからも花火部の仲間として、今までどおり話せるのか。
けれど、それを聞いたら、自分が直人のことを特別に思っていると気づかれてしまいそうだった。
「……先輩、卒業しても花火部に顔出してくれます?」
ようやく出てきたのは、そんな質問だった。
直人は少し意外そうにしたあと、笑った。
「予定が合えばな。みんなが活動してるとこも見に来たいし」
「ほんまですか?」
「うん。俺がおらんくなったら、亮介が好き勝手しそうやし」
「それはそうですね」
美咲は思わず笑った。
「絶対、紗季が苦労しますよ」
「せやろなあ」
二人で笑ったあと、直人はふと窓の外に目を向けた。
「でも、みんなもいつか卒業するやろ。ずっと今のままってわけにはいかへんしな」
美咲は手元の資料を見つめた。
「……そうですね」
「寂しいん?」
不意に聞かれて、顔を上げる。
直人はからかう様子もなく、ただ普通に尋ねていた。
「そら、寂しいですけど」
美咲は小さく笑った。
「今が楽しいから、変わるんが嫌なんかもしれません」
口にしてみると、それは思っていた以上に本音だった。
今の生活が好きだった。
紗季とくだらない話をして、亮介とふざけ合って、直人の話を聞く。花火部で失敗したり、上手くいったことを喜んだりする。
卒業すれば、それぞれ別の道へ進む。
分かっている。いつまでも同じ場所にはいられない。
それでも、変わってほしくなかった。
「今が楽しいんやったら、それはええことやと思うで」
直人はそう言った。
「変わるんは寂しいけど、変わったあとにも楽しいことはあるやろうし。今の仲間と、これからも付き合っていけるかもしれへん」
「……はい」
「俺も、そうできたらええなと思ってる」
その言葉を聞いて、美咲の胸が温かくなった。
自分と同じように考えてくれている。
そう思えたことが、嬉しかった。
けれど、直人が言ったのは、あくまで仲間としての話だった。
美咲はそれを分かっていた。
分かっていたからこそ、その先にある言葉を聞くことはできなかった。
数日後、花火部の活動が早く終わった。
紗季と亮介は用事があると言って先に帰り、直人も先生に呼ばれていた。美咲は一人で部室の片づけを済ませ、帰ろうとしたところで、廊下にいた直人と出会った。
「美咲、今から帰るん?」
「はい。先輩もですか?」
「うん。駅まで一緒に行こか」
その一言だけで、美咲の心は落ち着かなくなった。
二人で歩く帰り道は、これまでにも何度かあった。それなのに、今は隣にいることを意識してしまう。
話題を探そうとして、逆に何も思いつかなくなった。
「今日、静かやな」
直人が笑った。
「いつもはもっとしゃべるのに」
「……そうですか?」
「うん。亮介と張り合ってるときなんか、ずっとしゃべってるやん」
「それは亮介が余計なこと言うからです!」
「はは、そうなんや」
いつもの調子で返されて、美咲は少し安心した。
会話が途切れても、直人は無理に何かを話させようとはしなかった。二人で歩く速度を合わせながら、駅へ向かっていた。
やがて、直人が口を開いた。
「美咲は、これから何したいん?」
「え?」
「前に進路の話したやろ。まだ決まってへんって言うてたから」
美咲は驚いた。
覚えていてくれたのだ。
何気ない会話だった。自分にとってはずっと考えていることでも、直人にとっては、その場で終わった話だったかもしれない。
それなのに、覚えていてくれた。
「……まだ、よく分からへんです」
「そっか」
「でも、楽しく暮らしたいなって思います」
直人は笑った。
「ええやん」
「それだけでええんかなあ」
「何であかんの?」
美咲は答えられなかった。
将来の夢というと、もっと立派なものを言わなければいけない気がしていた。具体的な職業や、目指す場所や、誰かに説明できる目標。
けれど、美咲が望んでいたのは、好きな人たちと笑って過ごせる生活だった。
「……直人先輩は、どんな大人になりたいんですか?」
「難しいこと聞くなあ」
直人は少し考えた。
「自分で決めたことに、ちゃんと責任を持てる大人になりたいかな」
「責任……」
「何でも人のせいにしたり、都合が悪くなったら逃げたりせんようにしたい。もちろん、失敗することはあるやろうけどな」
直人は歩きながら続けた。
「自分で選んだことなら、うまくいかへんかったときも、自分で考えてやり直せるやろ。誰かの言うとおりにするだけやと、後悔したときに何もできへん気がするねん」
美咲は黙って聞いていた。
直人らしい答えだと思った。
落ち着いていて、現実的で、けれど自分の考えをきちんと持っている。
そんなところに惹かれているのだろうか。
もっと話していたい。
もっと、この人のことを知りたい。
一緒にいると、いつもの帰り道が少し違って見える。
美咲は、その気持ちを胸の奥にしまった。
「……先輩なら、なれそうですね」
「どうやろな。俺もまだまだやで」
「でも、そういう考え方、好きです」
言ってから、美咲は息を止めた。
しまった、と思った。
直人は特に気にした様子もなく、笑っていた。
「ありがとう。そう言うてもらえるんは嬉しいわ」
美咲は慌てて前を向いた。
自分が言った「好き」は、考え方のことだった。
そう説明することもできる。
実際、そういう意味でもあった。
けれど、自分の中には、それだけではない気持ちが確かにあった。
それを知られたくないような、気づいてほしいような。
自分でも矛盾していると思った。
駅に着くまで、二人はいつものように話した。
学校のこと、花火部のこと、亮介がまた何かやらかしたこと。
改札の前で別れるとき、直人は軽く手を上げた。
「ほな、また明日な」
「……はい。また明日!」
美咲も手を振った。
直人の姿が人混みに紛れて見えなくなってからも、しばらくその場を動けなかった。
また明日。
その言葉が、こんなに嬉しい。
明日になれば、また会える。
そのことだけで、今日一日が特別なものになった気がした。
家に帰ると、美咲は鞄を置き、机の前に座った。
進路希望調査の紙は、まだ引き出しに入れたままだった。
将来のことは、相変わらず決まっていない。
けれど、以前とは少し違うことを考えるようになっていた。
自分が大人になったら、どんな生活をしているのだろう。
どんな場所に住んで、どんな仕事をして、誰と一緒に過ごしているのだろう。
そこに、直人がいる未来を想像してしまう。
一緒に花火を見に行く。
帰り道に、今日あったことを話す。
何でもないことで笑い合う。
そんな場面が、勝手に頭の中に浮かんでくる。
美咲は枕に顔を埋めた。
「……何考えてんねん、私」
自分に呆れたように呟いた。
まだ、何も始まっていない。
直人は自分のことを、花火部の後輩としか思っていないかもしれない。そもそも、恋愛対象として見てくれているかどうかも分からない。
自分が勝手に期待しているだけだったら、どうするのだろう。
そう考えると、急に恥ずかしくなった。
今までのように話せなくなったら嫌だ。
変に意識して、距離ができてしまうのも嫌だった。
何も伝えなければ、今の関係は続くかもしれない。
そう思う一方で、いつかは自分の気持ちを伝えたいとも思っていた。
直人がどんな答えを返すのか、知りたい。
けれど、今はまだ怖かった。
美咲は顔を上げ、机の上の写真を見た。
紗季と亮介と直人、そして自分。
みんなが笑っている。
この写真を撮ったとき、直人のことを特別に思ってはいなかった。
ただ、頼りになる先輩だった。
一緒に活動する仲間だった。
それが、少しずつ変わってきた。
何かをきっかけに、突然変わったわけではない。
話をするたび、考え方を知るたび、知らなかった一面を見つけるたび、気づけば目で追うようになっていた。
美咲は写真の中の直人を見つめた。
「……好きなんかなあ」
声に出してみると、思った以上に照れくさかった。
誰かを好きになることが、こんなにも自分の考えを変えるなんて知らなかった。
それでも、美咲はその気持ちを嫌だとは思わなかった。
むしろ、嬉しかった。
明日、直人に会える。
そのことを楽しみにしている自分がいた。
翌日の放課後、花火部の部室では、亮介がまた遊園地の話をしていた。
「なあ、ほんまに行くんやんな?」
「まだその話してるん?」
紗季が呆れる。
「約束したやろ! 絶叫系も乗るんやで、美咲!」
「分かってるって!」
美咲が言い返すと、直人が笑った。
「ほんまに大丈夫なん? 無理せんでええんやで」
「大丈夫です! 乗ったことないだけやから!」
「ほな、楽しみにしとくわ」
直人の言葉に、美咲は一瞬、返事を忘れた。
楽しみにしとく。
たったそれだけの言葉なのに、胸がいっぱいになった。
「……はい!」
返事をした声が、少し弾んだ。
亮介が不思議そうに首を傾げたが、紗季は何も言わず、こっそり笑っていた。
美咲はその笑顔に気づいて、紗季の腕を軽くつついた。
「何笑ってんねん」
「別に?」
「絶対、何か思ってるやろ!」
「何も思ってへんって」
紗季はそう言いながら、また笑った。
いつもの部室。
いつもの仲間。
いつもの放課後。
けれど、美咲の中には、誰にも話せない未来が少しずつ形を持ち始めていた。
直人と、もっと一緒にいたい。
これからも、隣で笑っていたい。
いつか、自分の気持ちを伝えられたら。
そんな願いが生まれていた。
その願いが、これからの美咲をどこへ連れていくのか。
まだ、彼女には分からなかった。
ただ一つ確かなのは、昨日までと同じ景色の中で、美咲の心だけが少しずつ変わり始めていたことだった。
そして、その気持ちはまだ、誰にも伝えられていなかった。
コメント
1件
「あー、もう、美咲の気持ちが痛いほど伝わってきて、胸がぎゅってなったわ……。特に帰り道で「好きです」って口を滑らせたとこ、めっちゃ分かる。慌てて「考え方です!」ってなるやつやん。あと、直人が美咲の進路の話覚えてたシーンは反則やで。そういう何気ない優しさにやられるんよな。紗季に気づかれてるのも、なんか微笑ましくて好き。次、遊園地行くんか。絶叫系でどうなるんか楽しみやし、直人がどんな顔するか気になるわ。続き、めっちゃ待ってる🔥」