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#現代ファンタジー
るるくらげ
夜霧の濃い晩だった。石畳の継ぎ目に白い息のような霧がたまり、路地の角灯は、灯っているのに半分しか役に立っていない。ルクスバールの夜は、こういう顔をするとよくない。そう教えられて育ったロビサは、革鞄の留め具を確かめ、肩に提げた記録箱を抱え直した。
先を歩くモンシロが、振り返らずに言う。
「足もとを見ろ。血の跡より先に転ぶな」
「はい」
短く返すと、班長はそれで十分だとでも言うように歩幅を戻した。余計な励ましを重ねないところが、この人らしい。路地の奥では、泣き疲れた女のしゃくり上げる声と、近隣の住民たちの低いざわめきが重なっていた。
鬼害だった。
現場の空気には、血の匂いだけではないものが混じっていた。泣き声を聞きつけて集まった近隣の者たちが、低い声で同じ問いを交わし、そのたびに答えを失って口をつぐむ気配だ。まだ忘却は始まっていない。それでも皆、七日後にはこの痛みの輪郭さえ薄れていくと知っている。そのおびえが、夜霧より先に路地へ満ちていた。
被害記録局の見習いであるロビサにとって、現場へ入るたびに胸の奥へ冷たい針を差し込まれるような感覚は、まだ消えない。けれど、その痛みを顔へ出さないことも仕事のうちだった。七日経てば、この場に立ち会った者ですら、被害者の顔も声も取り落とし始める。だから今、記す。忘却へ呑まれる前に、名前と最期をこの世へつなぎ止める。それが被害記録官の役目だった。
現場は、干し肉屋の裏手にある細い通路だった。倒れていた男はまだ若く、買い物籠が脇でつぶれ、転がった林檎が血に濡れていた。入口で膝をついていた妻らしい女が、何度も同じことを繰り返している。
「この人、今朝、笑ってたんです。うちの子が、明日は甘い焼き菓子がいいって……」
隣で小さな男の子が、父親の袖を握ったまま泣くのを我慢していた。
ロビサはその子から目をそらさず、静かに一礼した。
「記録を取ります。お名前を聞かせてください」
女は涙で濡れた顔を上げ、男の名を告げた。ロビサは羊皮紙を広げ、記録針のムーンストーンへ息を吹きかける。青白い光が小さくともり、細い針先がかすかに震えた。
最後に、現場検証用の蒼い鏡の欠片を掌へ乗せる。
本来なら、鬼に奪われかけた名の残り火が、ここへ映る。被害者の最期に触れるための、痛くて必要な作業だ。
ロビサは欠片を掲げた。
掌の上の小片は、氷より冷たく、それでいて人の鼓動だけを拾うようにかすかに脈打っていた。幼い日にこの青い欠片へ触れてから、ロビサは見なくていい最期まで垣間見るようになった。けれど同時に、見たものを見捨てて背を向けることもできなくなっていた。
次の瞬間、冷えた鏡面へ浮かんだのは、血に倒れた男ではなかった。
見知らぬ青年だった。
煤けた外套の前を半分開け、息を切らし、どこかへ手を伸ばしている。夜霧に濡れた黒髪。鋭い目つきのくせに、眉の寄せ方だけが妙に子どもっぽい。しかもロビサには、その顔の向こうに一瞬だけ別の像が重なって見えた。喉もとまで黒い文字が這い上がり、名前を奪われる寸前の、知らない最期の断片だった。
ロビサの指先から、鏡の欠片が滑りかけた。
「おい、嬢ちゃん! そいつ触るな!」
現実の声が、路地の入口から飛んできた。鏡に映っていた当人が、そこにいた。
青年は腕の長い男を追って路地へ駆け込んできたらしく、肩で息をしながらこちらを見た。追われていた男はロビサたちを認めると舌打ちし、手にしていた封書を引き裂いて石畳へばらまき、そのまま塀を乗り越えて逃げた。
「待て!」
青年が追おうとしたところへ、ロビサは反射的に立ちはだかった。
「動かないでください。鬼害現場です」
「は?」
「証拠品を追っていたふりをして現場へ近づいた可能性があります。手を見せて」
「いや、今逃げたやつが盗ったんだろ。見てたなら止めろよ」
「止める相手を間違えたくないので、まずあなたを確認します」
「最初から俺を盗人扱いしてる顔で言うな」
口調は荒い。袖口は擦り切れ、靴も泥だらけだったが、腰の革袋には修理道具らしい小さな工具が何本も差してある。通りのごろつきなら持たない道具だと頭ではわかった。それでも、蒼い鏡に先に映った男を前にして、ロビサの警戒は簡単に解けなかった。鏡面の向こうで見えた、喉もとへ黒い文字が這い上がる断片が、まだ指先へ冷たく残っている。あれが偶然で片づくなら、どれほど楽だっただろう。
【続】