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閉店してから、店の中が急に広く感じた。
さっきまであれだけ人の声がしていたのに、今はグラスを片づける音と、スタッフ同士の短いやり取りしか聞こえない。
私はロッカーへ向かいながら、スマホを開いた。
さっき届いた二つのメッセージ。
一つ目。
『今日はありがとう。楽しかった』
二つ目。
『明日、時間ある?』
どちらも短い。
どちらも、急かしてはいない。
だから余計に迷う。
誰から来たのか。
分かっている。
分かっているから、なおさら返信に困る。
「ナナ、帰る?」
ミオに声をかけられた。
「うん。もう着替える」
「スマホ見ながら固まってたけど」
「そう?」
「うん」
ミオは私の顔を覗き込む。
「なんかあった?」
「何もないよ」
いつもの返事。
けれど、ミオはそれ以上聞かなかった。
「そっか。じゃ、お疲れ」
「お疲れさま」
更衣室に一人になる。
ドレスを脱いで、私服に着替える。
鏡を見る。
昼間の自分に戻っていく。
それなのに、頭の中はまだ店の中にいた。
高槻さん。
真瀬さん。
三崎さん。
そして、店の外で会う人。
四人とも、私に向けるものが違う。
だから私は、誰にどう返せばいいのか分からなくなる。
……違う。
分からないんじゃない。
分かりたくないのかもしれない。
誰かの気持ちに気づいてしまったら、今までと同じではいられなくなる。
仕事なら、距離を決められる。
笑うタイミングも。
話す時間も。
帰る時間も。
全部、ある程度は自分で選べる。
でも、店の外は違う。
「普通」の時間には、決まった台本がない。
私はスマホを手に取る。
一つ目のメッセージを開く。
『今日はありがとう。楽しかった』
短い。
それだけなのに、返事を考えるのに時間がかかる。
『こちらこそ』
打つ。
消す。
『私も楽しかったです』
打つ。
また消す。
結局、
『こちらこそ、ありがとうございました』
それだけにした。
送信する。
すぐに既読がつく。
『またね』
それだけ。
私はスマホを伏せた。
もう一つのメッセージを見る。
『明日、時間ある?』
こちらはまだ開いていない。
通知画面に残ったまま。
私はしばらく眺める。
明日は出勤前なら時間がある。
予定もない。
だから、
「ある」
と答えることはできる。
なのに指が動かない。
店の外で会う人との時間は、楽だ。
楽だからこそ怖い。
何も求められない。
何も演じなくていい。
そんな時間に慣れてしまったら、
私はどこで自分を保てばいいんだろう。
スマホをポケットに入れる。
今夜は、まだ返さない。
そう決めて店を出た。
外の空気は冷たかった。
駅まで歩く。
信号で立ち止まる。
赤い光が、道路に滲んでいる。
私は何となくスマホを取り出した。
新しい通知はない。
それを確認して、
少しだけ安心した。
……安心した?
自分でも、その感情がよく分からなかった。
信号が青になる。
私は歩き出す。
明日のことは、明日考えればいい。
そう思った。
けれど家に着くまで、
ポケットの中のスマホが、
ずっと気になっていた。
コメント
1件
うわ、めっちゃ分かるわこれ…。 「分からないんじゃない。分かりたくないのかもしれない」ってセリフ、ガチで刺さった。ナナの心情がひたすら丁寧に描かれてて、スマホのメッセージ二つに悩む感じ、すごくリアルだった。店の外の「普通」の時間に台本がないって表現、秀逸すぎる。最後の信号待ちで「安心した?」って自分に問いかけるところ、もう完全にナナの心の中に入り込んでたわ。明日のことは明日考えようって思っても、ポケットのスマホが気になってるって終わり方、続きが気になりすぎる🔥