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翌日の昼。
私は、いつもより少し早く家を出た。
出勤するにはまだ早い。
だから、駅の近くの小さなカフェに入った。
特に理由があったわけじゃない。
ただ、家にいるとスマホを見てしまいそうだった。
昨日の夜から、ずっとそうだった。
『明日、時間ある?』
結局、私は寝る前まで返信しなかった。
起きてからも、そのまま。
既読をつけるだけなら簡単なのに、それすらしなかった。
テーブルにスマホを置く。
コーヒーを一口飲む。
苦い。
当たり前なのに、今日はやけに苦く感じた。
「……何やってるんだろ」
独り言が漏れる。
誰かに呼ばれたわけでもない。
返事をしなければならない期限があるわけでもない。
それなのに、ずっと考えている。
私は、スマホを裏返した。
三分もしないうちに、また表に戻す。
通知はない。
少し安心する。
そして、その安心に自分で引っかかる。
来てほしいのか。
来てほしくないのか。
自分でも分からない。
私はこういう時、いつも相手のことを考える。
忙しいのかな。
迷惑かな。
急かしてると思われないかな。
断ったら悪いかな。
でも、それって結局、
自分がどうしたいかを考えていない。
昨日、高槻さんに言われたことが頭に浮かんだ。
『ナナちゃんって、心配された時、困った顔するよね』
あの時は笑って流した。
でも、帰ってから何度も思い出した。
私は、心配されるのが苦手だ。
正確には、
心配されて、そのまま受け取るのが苦手。
大丈夫じゃないと言ったら、何かを返さなきゃいけない気がする。
心配してくれた分だけ、安心させなきゃいけない。
相手が差し出してくれたものを受け取ったら、今度は私が何かを返す番になる。
だから、笑う。
「大丈夫です」
「平気ですよ」
「ありがとうございます」
そう言えば、そこで終われるから。
カップを両手で包む。
その時、スマホが震えた。
心臓が一瞬だけ跳ねる。
画面を見る。
昨日のメッセージの相手からだった。
『起きてる?』
思わず笑ってしまった。
「起きてるよ……」
小さく呟いてから、はっとする。
何を安心してるんだろう。
私は返信欄を開いた。
『起きてます』
送る。
すぐに返事が来る。
『よかった』
たったそれだけ。
なのに、肩の力が抜けた。
『今日、少しだけ会える?』
私は画面を見つめた。
少しだけ。
その言葉に逃げ道がある気がした。
長時間じゃない。
特別な予定でもない。
ただ会うだけ。
そう考えればいい。
『うん』
入力して、
送信する直前に止まった。
うん。
それだけでいいのか。
私は一度、文章を消した。
『何時くらい?』
今度はそれだけ送った。
返事を待つ間、窓の外を見る。
人が歩いている。
学生が笑いながら通り過ぎる。
スーツ姿の人が急いでいる。
誰も私のことなんて見ていない。
それが少しだけ楽だった。
しばらくして、時間が返ってきた。
私は時計を見る。
まだ余裕がある。
店に向かうまでの時間も考えれば、ほんの少しだけ。
私は立ち上がった。
会うだけ。
そう自分に言い聞かせる。
なのに、店へ向かう時よりも、
鏡の前で髪を整える時間の方が長かった。
服装を確認する。
変じゃない。
いつも通り。
それなのに、何度も確認してしまう。
仕事じゃない。
だからこそ、何を正解にすればいいのか分からない。
店なら、
「今日も可愛いね」
と言われたら、
「ありがとうございます」
でいい。
「似合ってる」
と言われたら、
「本当ですか?」
でいい。
笑えばいい。
でも今日は違う。
誰かに見せるための自分じゃない。
……じゃあ、私は何を着ればいいんだろう。
そんなことを考えている自分がおかしくなって、少し笑った。
「何考えてんだろ、私」
駅へ向かう。
待ち合わせ場所に着く。
まだ来ていない。
私は少し離れたところで立って待った。
仕事なら、待つことにも意味がある。
お客さんを待つ。
時間を合わせる。
相手が来たら笑う。
今日は違う。
ただ、待つ。
それだけ。
しばらくして、向こうから歩いてくる姿が見えた。
私に気づいて、手を上げる。
「ごめん、待った?」
「ううん。今来たところ」
反射的に答えてから、自分で気づく。
嘘だ。
少し前からいた。
でも、別にいい。
「じゃあ行こうか」
「うん」
並んで歩き始める。
どこへ行くかも決めていない。
それなのに、私は不思議なくらい緊張していなかった。
店ではない。
誰にも見られていない。
名前を呼ばれることもない。
ナナちゃん、と呼ばれることもない。
ただ私として歩いている。
その感覚に慣れそうになったところで、
ふと、昨日の店の光景が浮かんだ。
高槻さんの言葉。
真瀬さんの視線。
三崎さんの、何でも見抜いてしまいそうな目。
私は三人のことを考えていた。
そのことに気づいてしまって、
少しだけ歩く速度が落ちた。
「どうした?」
「え?」
「なんか考えてた?」
「……ううん」
また、いつもの答え。
けれど今日は、
その言葉を言ったあとに少しだけ引っかかった。
私は今、
誰に対して「大丈夫」と言っているんだろう。
目の前の人に?
それとも、自分自身に?
分からない。
でも、一つだけ分かった。
私は最近、
誰かに何を思われているかより、
自分が誰を気にしているのかの方が、
気になり始めている。
コメント
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みぅです🤍🥀 第56話、すごく刺さりました……。 「来てほしいのか、来てほしくないのか、自分でも分からない」——この感覚、すごく分かります。相手に気を遣いすぎて、自分の気持ちがどこにあるのか、見えなくなっちゃうことってあるよね。 最初は「大丈夫です」って笑ってやり過ごすのに、最後の「自分が誰を気にしているのかの方が、気になり始めている」で、ああ、ナナちゃんの心が少しずつ変わっていってるんだなって。この静かな成長の描き方、大好きです。 コーヒーがやけに苦く感じる朝の描写も、日常のリアルさが詰まってて、一緒にカフェにいるような気持ちになりました🌙
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