テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
54
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「……あー、ダメだ。綺麗すぎる」
ハルは自室のモニターを見つめ、溜息をつくと同時にデリートキーを叩いた。スピーカーから流れていた、透き通るようなピアノの旋律がプツリと途絶える。 春の曲を作っていた。それも、誰もが「春だね」と納得するような、桜の花びらが舞い落ちるような、教科書通りの美しい曲を。けれど、ハルにはそれが、味のしないガムを噛んでいるようにしか思えなかった。
「何かが足りない。……『生きてる音』がしねえんだ」
ハルはノートパソコンと録音用のマイクを鞄に詰め込み、逃げるように家を出た。向かったのは、校舎の屋上。そこは、真面目すぎるハルが唯一「正解」を求めずにいられる、自分だけの避難所だった。
重い鉄の扉を開けた瞬間、ハルの耳に飛び込んできたのは、風の音ではなかった。
「――っ、はぁ! うっま!!」
唐突な絶叫。 屋上の給水タンクの影に、それはいた。
全身を覆う重厚な紫色のローブ。頭には、先端が折れ曲がった巨大な三角形の帽子。手には……杖ではなく、箱から溢れんばかりの特大Lサイズピザ。 リコだった。 同じ学年で「歩く台風」と恐れられている変人。しかし、今目の前にいるのは、台風というよりは「空腹の魔法使い」だった。
「……リコ?」 「んぐっ、げほっ! ……あ、ハルじゃん。あんたもピザ? 食う?」
リコは口の周りをテカテカの油とトマトソースで汚したまま、満面の笑みでピザを差し出してきた。ハルは絶句した。 「……何してんの、その格好」 「これ? 魔法使い。今日ね、『自分を魔法使いだと思い込んでイタリア料理を食う』っていう修行中なの。あんたもやる?」
「やるわけないだろ」 ハルは頭を振って、いつものように隅っこに座り、ヘッドホンを装着した。リコの存在を無視して、自分の世界に閉じこもろうとする。しかし、リコは許してくれなかった。
バサリ、とハルの視界を紫色のローブが遮る。 「ねえ、何聴いてんの? ……へぇ、これあんたが作った曲?」
リコは強引にハルのヘッドホンを片方奪い、自分の耳に当てた。 数秒の沈黙。 「……綺麗だね」 「だろ。完璧な理論で……」 「でも、全然お腹空かない」
リコはバッサリと切り捨てると、ハルの録音用マイクをひったくった。 「おい、返せよ!」 「いいから! ほら、この曲のサビ、ここにこれ入れなよ!」
リコはマイクを自分の口元に寄せると、一番大きなピザを手に取り、耳元で響くような音を立てて豪快に齧り付いた。
――ガリッ、ジュワッ、クチャッ、ゴクン。
「ぷはぁ! ……で、これ!」
リコがそのまま、マイクに向かって裏返った声でデタラメなメロディを歌い出す。 「春だ! ピザだ! チーズが伸びるー!!」
「やめろ! 壊れるだろ!」 ハルは慌ててマイクを取り返したが、手遅れだった。波形編集ソフトの画面には、リコが立てた下品な咀嚼音と、制御不能な歌声の波形が、ハルの「完璧なピアノ」を無残に上書きしていた。
ハルは怒鳴ろうとして、ふと手を止めた。 ヘッドホンから漏れ聞こえてくる、上書きされた音。 ノイズだらけだ。ピザを噛む音も、リコの笑い声も、めちゃくちゃだ。
けれど。 「……なんだこれ」
ハルの作った冷たいピアノが、リコの「食べる音」が加わった瞬間に、まるで心臓が動き出したかのように熱を帯びて聞こえた。
「でしょ? 音に味がついたじゃん」 リコは魔法使いの帽子を斜めに被り直し、誇らしげに鼻を鳴らした。 「あんたの曲に足りないのは、カロリーだよ、ハル!」
これが、のちに伝説(と近所迷惑)となる、作曲家ハルと破壊神リコの、ハチャメチャな春の始まりだった。