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残された席は、驚くほど何も求めてこなかった。
甘さも、張りつめた距離も、どちらも置いていったみたいに。
私は、グラスの水滴を指でなぞった。
誰も急かさない。
笑顔を足さなくても、空気が壊れない。
それが、少しだけ楽で、少しだけ物足りない。
フロアの奥では、別の席が盛り上がっている。
軽い声。大げさな相槌。
「モテてるね」と言われる種類の空気。
私は、そこに視線をやらずに済んだ。
そのとき、スマホが震えた。
ポケットの中で一度だけ。
営業用とは違う、短い振動。
画面は見ない。
今は、見ない方がいいと分かっていた。
黒服が通り過ぎる。
「少ししたら、フリー入るかも」
私は、うなずくだけで返す。
席を片づけながら、さっきの静けさを思い出す。
何も要求されない時間。
評価も、期待も、好意も、置かれない場所。
――店の外なら、それは“優しさ”になるのかもしれない。
でも、ここではただの例外だ。
もう一度、ポケットの中で振動。
今度は、少し長い。
私は、ようやく画面を見る。
名前は出ていない。
でも、誰かは分かる。
《無理してない?》
それだけ。
質問でも、命令でもない文。
私は、すぐには返さない。
返したら、この静けさが壊れる気がした。
席に新しい客が来る。
私は立ち上がり、いつもの声を作る。
いつもの距離。
いつもの役割。
でも、さっきまでの静けさが、体のどこかに残っている。
それは、甘くもないし、苦しくもない。
ただ、確実に“外”につながっている感覚だった。
恋愛だなんて、まだ言えない。
でも、仕事とも言い切れない。
その境目が、今日もまた一ミリだけ近づいた。