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机が倒れた音より先に、教師のため息が教室に落ちた。
遥は壁際に追い込まれ、肩を押されただけだ。拳は出していない。出せなかったのではなく、出さない癖が身体に染みついていた。
「またお前か」
教師の視線は、最初から遥だけを捉えていた。
周囲の生徒が何人も笑っている。その笑いが、もう結論を知っている証拠だった。
「言っとくけどな、ケンカは両成敗だ。被害者面すんな」
(殴られたのは……俺だけだ)
口の中でそう思っても、声にはならない。
遥が黙ると、教師は“納得した”という顔をした。
「反論しない。よし、理解してるな」
黒板の前に立たされる。
逃げ場のない位置。ここが“役割”だと、遥はもう知っている。
「一人一発。順番。感情的になるなよ」
教師は教卓に腰を預け、止める気はないと明言した。
最初の一撃で腹が鳴り、息が抜ける。
次は脇腹。次は背中。力はバラバラだが、共通しているのは“許可されている”という安心だった。
「ほら、ちゃんと受けろよ」
「逃げないの偉くね?」
誰かが笑う。誰かが撮ろうとして、教師に目で止められる。
だが教師は言うだけだ。
「記録は要らん。教育だ」
遥は倒れなかった。
倒れると、次は「大げさ」「演技」と言われる。
立って耐える方が、早く終わる。
「反撃しないってことは、反省してるってことだ」
教師のその一言で、空気が固まった。
“抵抗しない=悪いことをした”
その式が、教室全体に共有される。
殴られる役は、これで確定した。
「はい、終了。これ以上やると問題になる」
問題になる“手前”で止めたという自己満足だけを残し、教師は授業を再開した。
遥は席に戻る途中、足を引っかけられてよろめく。
「ほらな、まだやる気か?」
教師は見ていたが、注意しなかった。
遥が悪者である限り、何が起きても“流れ”の中だ。
(次も……こうなる)
そう思った瞬間、胸の奥がひどく静かになった。
怖さより、確信だった。
授業の途中、遥はようやく保健室に行くのを許された。
教師は廊下で一言だけ付け加えた。
「反省してるなら、静かにしてろよ。騒ぐな」
保健室のドアを開けると、消毒薬の匂いがした。
養護教諭は遥の顔を一瞥し、眉をひそめる。
「……また、あなた?」
“どうしたの?”ではない。
“また”だった。
「ケンカ? ほんと懲りないね」
(殴られただけだ)
そう言おうとして、遥は口を閉じた。
ここでも説明は、罪になる。
「座って。血は出てないでしょ」
椅子に座ると、肩がずきりと鳴いた。
服の上から軽く触れられただけで、思わず身が強張る。
「そんなに身構えないで。触るだけ」
その言い方が、もう責めていた。
「抵抗しなかったって聞いたよ。
だったら、同意みたいなもんじゃない」
遥は目を伏せた。
“殴られても反撃しない”という生き方が、ここでは“望んでいる”に変換される。
「あなたね、そういう態度が周りをイラつかせるの。
被害者ぶる前に、自分を見直しなさい」
湿布を雑に貼られ、はい終わり、と手を払われる。
痛みより、言葉の方が残った。
「これ以上続くなら、あなたが悪質って記録に残るから」
(……もう、悪質なんだろ)
保健室を出ると、廊下の向こうで笑い声がした。
遥を見つけた誰かが言う。
「先生にチクったの?」
「まだやる気じゃん」
違う、と言えない。
言わないことが、ここでは“認めた”になる。
サンドバッグは、場所を変えただけで続いていた。
教室でも、保健室でも。
(抵抗しない限り、俺は――)
その先を考える前に、チャイムが鳴った。
戻らなければならない。
次は、また教室だ。