正月気分もすっかり抜け、病院にはいつもの日常が戻って来た。
この日瑠璃子は入退院の患者の対応に追われていた。
外科の病棟は内科に比べると入院日数が短い患者が多いので入れ替わりも激しい。
そんな中でも瑠璃子は一人一人の患者に丁寧に対応していった。
そして昼休み瑠璃子が食堂で弁当を食べているとテレビではいつものドラマが始まった。
瑠璃子は最近このドラマがお気に入りだ。ドラマは平日の午後1時から30分枠で放映されている。
一人で食事の時には必ず観ているし、同僚達の間でも人気のドラマだ。
ドラマのあらすじは古いアパートを舞台に繰り広げられるヒューマンドラマだ。アパートに住むシングルマザーの母親と11歳になる娘がアパートの入居者達と繰り広げられる騒動が中心だった。
入居者には大学院に通う20代の青年がいた。少女はよく遊んでくれるこの青年の事が大好きだった。
今日の放送は、少女が将来自分をお嫁さんにしてくれと青年に懇願するシーンだった。
最初瑠璃子は微笑まし気にそのドラマを観ていたが、途中ハッと何かを思い出し深刻な表情になる。
それは突然やってきた。瑠璃子の忘れていた記憶が蘇った瞬間だった。
***
「瑠璃ちゃん、上手に出来たね」
青年はラベンダーのブーケを手に取って見ると瑠璃子を褒めた。
「うん、すごく上手に出来たでしょう? 瑠璃子、お兄ちゃんのお嫁さんになる時はこのブーケで結婚式に出るの」
瑠璃子が満面の笑みを浮かべて言うと青年は少し困っているようだ。
「瑠璃ちゃんがお嫁さんになる頃には僕はもうおじさんだよ」
「お兄ちゃんがおじさん? キャハハッ! おじさんおじさんっ、キャハハハッ!」
瑠璃子は笑い転げる。
「おじさんでもいいよ。瑠璃子はお兄ちゃんのお嫁さんになるって決めてるんだもん」
「うーん……それじゃあこうしよう。瑠璃ちゃんが30歳になってもまだお嫁さんに行っていなかったら僕がお嫁さんにしてあげるよ」
「本当?」
瑠璃子は目を輝かせる。
「うん。瑠璃ちゃんのお誕生日はいつだっけ?」
「瑠璃子はバレンタインデーがお誕生日なの」
「そっか。じゃあ30歳になる2月14日に瑠璃ちゃんがまだ結婚していなかったら、このラベンダーの丘で逢いましょう。そうしたら僕のお嫁さんにしてあげるよ」
「本当? 絶対よ!」
「うん、本当だよ」
瑠璃子は目をキラキラさせたまま心から嬉しそうに笑った。
「えっとねぇ、じゃあ2月14日の何時に来ればいいの?」
「そっか、時間も決めないとだね。だったら瑠璃ちゃんがいつも遊びに来る朝の10時でどうかな?」
「わかった。瑠璃子それなら忘れない」
そして瑠璃子は突然走り出す。
「やったぁー! 30歳の誕生日の10時よー」
瑠璃子は嬉しそうにラベンダー畑をぐるぐると走り回る。
そこへ中川のおばあちゃんの声が響いた。
「瑠璃ちゃん、お迎えが来たからおいでー」
「はーい」
瑠璃子は中川のおばあちゃんのところへ行く前に青年を振り返りこう言った。
「お兄ちゃん約束だよ! 絶対に忘れないでね」
「うん、じゃあ指切りをしようか」
青年は小指を差し出し瑠璃子と指切りをした。
瑠璃子はその時の青年の温かい手の温もりを鮮明に思い出していた。
***
「瑠璃ちゃーん」
その時瑠璃子を呼ぶ声が聞こえたのでハッとする。
「うわぁ、瑠璃ちゃんと久しぶりにお昼食べられるー」
「ほんと、最近、全然時間帯が合わなかったもんね」
気付くと内科の同僚達が同じテーブルに座ろうとしていた。
「ほ、ほんとお久しぶりです」
「ねぇねぇ瑠璃ちゃん聞いた? 佐川先生、彼女が出来たんですってー」
「そうそうショックー。佐川先生は永遠のプレイボーイでいて欲しかったー、一人に決めないで欲しいよねぇ」
「そうそう、既婚者の私だってショック受けてるもんっ」
そしてしばらくはその話題で持ちきりになる。
同僚達とお喋りをしている間、瑠璃子は先ほどの事を一旦忘れる事にした。
その後食事を終えた瑠璃子はナースステーションへ向かっていた。
廊下を歩きながら改めて先ほどの事を思い返す。
瑠璃子は確かに小学校4年生の夏の記憶を思い出していた。
夏休み、瑠璃子はいつも青年と遊んでいた。そして青年と指切りした記憶もしっかりと思い出した。
ただどうしてもその青年の顔だけが思い出せない。
『中川のおばあちゃん』はラベンダー園の持ち主の中川さんだ。確か中川のおばあちゃんと瑠璃子の祖母は幼馴染だったはずだ。
瑠璃子の祖母は瑠璃子の祖父である夫と死別して未亡人だったが、中川のおばあちゃんも同じ未亡人だった。
二人はよく知った間柄なので、瑠璃子は毎日中川のおばあちゃんのラベンダー園で遊ばせてもらったのだ。
そして青年はラベンダー園に出入りしていた。だからあの青年は中川のおばあちゃんの親族かもしれない。
瑠璃子は夢の中で差し出された手と指切りした青年の手が同一人物の手であると確信する。
つまり青年は瑠璃子が泣きじゃくっている時にも一緒にいてくれたのだ。
そこでナースステーションに着いたので瑠璃子は思考を仕事モードに切り替え午後の業務に戻った。
その日仕事を終えた瑠璃子はバスに乗っていた。窓の外には雪が激しく降っている。
バス停に着くと瑠璃子はバスを降りてマンションまでの道のりを歩き始めた。
大通りから裏通りに入ると前に尻もちをついて座り込んでいる人がいた。高齢の女性のようだ。瑠璃子は急いで駆け寄り声をかける。
「大丈夫ですか?」
「滑って転んじゃって…そうしたら今度は立てなくなっちゃって…足の筋力が落ちちゃったのかしら?」
「あ、支えますからつかまって下さい」
「ありがとう、助かるわぁ」
女性は瑠璃子に抱き抱えられるようにしてなんとか立ち上がる。
女性はグレイヘアを上品にアップにした70歳前後の細身の女性だった。
「ああ助かったわ。ありがとう」
「お怪我はないですか? 捻挫とか打ち身とか……」
「ううん、大丈夫よ」
微笑みを浮かべ女性は改めて瑠璃子を見る。
「あら、あなたあそこのマンションの方ね」
「あ、はい。でもなぜそれを?」
瑠璃子は不思議に思った。
「うちはすぐそこの戸建てなの。ご近所さんね。時々あなたをお見掛けしたことがあったから」
「そうでしたか。じゃあ玄関までお送りします」
瑠璃子は落ちていた女性の荷物を拾うと女性の身体を支えながら玄関まで送った。
玄関の前まで行くと女性は礼を言う。
「ありがとう、本当に助かったわ。そうだわ! 良かったら少しお茶でもしていかない? 実はね、今日お友達にケーキを沢山いただいちゃったんだけど一人だと食べきれなくて……」
瑠璃子はその誘いに一瞬悩む。
初対面の方の家にいきなり上がるのは気が引ける。かといって断る理由もない。
どうしようか悩んでいると女性が言った。
「遠慮なんてしないで、さ、どうぞ」
女性はドアを開けて中に入ると瑠璃子にスリッパを出してくれた。
それを見た瑠璃子は断るのも申し訳ないような気持ちになり少しだけお邪魔する事にした。
コメント
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少しずつ記憶が甦ってきている瑠璃ちゃん。 そして、また新たな素敵な出会いの予感が....✨
瑠璃子ちゃんが助けた! 70歳位の女性や大輔先生とっても素敵💓な出会いになりそう🌷 ラベンダー畑の約束の記憶楽しみです♪💕💕
やぁくそぉくしよぉ~、つなぎあぁったゆびわぁ、はなさぁないとぉ~。(加山雄三『夜空の星』より)よっ、若大将っ。ぼくのっゆくとこぉろえぇ~、ついてぇおいでよぉ~。 愛の即配佐川急便は、令和の火野正平やったんかい。そない言うたら、和田アキ子は若大将を「お兄ちゃん」て呼んでへんかったっけ。あのころっわっ、ハッ。