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店に入る前、スマホが一度だけ震えた。
画面は見ない。
夜に入る前の通知は、だいたいろくなものじゃない。
ドアを開けると、いつもの匂い。
甘さと、緊張と、少しの嘘。
「ナナ、今日フリー多いよ」
黒服の声に頷いて、私は笑顔を作る。
最初に呼ばれた席。
そこにいたのは、指名はするけど、距離を詰めない男。
「こんばんは」
「うん。今日もちゃんと来たね」
“ちゃんと”。
褒め言葉でも、評価でもない。
出欠確認みたいな言い方。
グラスを作る。
氷の音が、少し大きく響く。
「忙しそうだね」
「そうですね」
それ以上は言わない。
彼は、私の話を引き出さない。
自分の話もしない。
ただ、私がどんな顔で仕事をしているかを、静かに見ている。
「疲れてる?」
「分かります?」
「分かるよ。無理してる顔」
その言葉で、少しだけ背筋が伸びる。
見抜かれるのは、怖い。
でも、嫌じゃない。
「でもさ」
彼はグラスを置いて、続けた。
「今日は、無理しない方がいい」
延長の話じゃない。
営業の流れでもない。
だから、返事に困る。
「……それ、客が言うことじゃないですよ」
「そう?」
「そうです」
彼は笑わなかった。
否定もしなかった。
「じゃあ、人として」
その言い方が、胸に残る。
他の席から呼ばれる。
私は一瞬だけ迷ってから、立ち上がる。
「すぐ戻ります」
「うん。待つよ」
“待つ”。
指名客が使うには、少し静かな言葉。
戻ってきたとき、彼はスマホを見ていなかった。
誰かと連絡もしていない。
ただ、そこにいた。
「ナナ」
名前を呼ばれる。
店の名前。
でも、呼び方が店用じゃなかった。
「はい」
「今日さ」
少しだけ間があって、
「楽しかった」
その一言で、胸の奥が温かくなる。
高いボトルも、甘い言葉もないのに。
「また来ますか?」
仕事の確認。
でも、声が少し低い。
「来るよ」
彼は立ち上がって、続けた。
「君が、ここにいる限り」
会計は静かだった。
名刺も、連絡先もない。
ドアの前で、彼は振り返る。
「無理しないで」
それだけ言って、出ていった。
残された席。
少し溶けた氷。
恋愛だと呼ぶには、何も始まっていない。
でも、
仕事だけだと言い切るには、残りすぎている。
私はグラスを片付けながら、思った。
あの人は、
“奪わない”くせに、
確実に心に触れてくる。
次に会うとき、
同じ距離でいられるかは、分からない。
——今日は、そんな一人。