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高槻さんの席を離れたあとも、さっきの言葉が妙に残っていた。
「今日は俺が独占したいだけ」
いつもの高槻さんなら、もっと軽く言う。
笑って。
冗談にして。
私が適当に返したところで、次の話題に移る。
でも、今日は違った。
言葉自体は軽いのに、目だけが笑っていなかった。
私はそれを考えないようにして、真瀬さんの席へ向かう。
「こんばんは」
「こんばんは」
真瀬さんはいつも通りだった。
「お待たせしました」
「うん」
グラスを置く。
「今日は忙しそうだね」
「見てました?」
「少し」
やっぱり、この人もよく見ている。
私は笑ってごまかす。
「高槻さんに捕まってました」
「そう」
それだけ。
何も聞かない。
でも、その返事が妙に気になる。
「……何ですか?」
「何が?」
「ちょっと静かだったので」
「いつも静かですよ」
「そうでした」
二人で笑う。
そのとき、少し離れた席から声が聞こえた。
「ナナちゃん、こっち空いたよ」
高槻さんだった。
私は振り向く。
「今行きます」
返事をしてから、真瀬さんを見る。
「戻ってきますね」
「うん」
席を立つ。
数歩進んだところで、後ろから声がした。
「ナナ」
振り返る。
「はい?」
真瀬さんは少し迷ってから、
「無理しなくていいよ」
それだけだった。
私は一瞬、意味が分からなかった。
「……はい」
笑って返す。
高槻さんの席へ戻る。
「おかえり」
「ただいまです」
「真瀬さん、何か言ってた?」
「別に」
「そっか」
高槻さんはグラスを傾ける。
少ししてから、何でもないように言った。
「ナナちゃんってさ」
「はい?」
「誰かに気を遣われると、すぐ困った顔するよね」
「そんな顔してました?」
「してた」
私は頬に触れる。
「自分では分からないです」
「だろうね」
高槻さんが笑う。
「そういうところ、分かりやすいよ」
「じゃあ、隠さない方がいいですか?」
「何を?」
「……分かりません」
言ってから、自分でも可笑しくなった。
高槻さんも笑う。
でも、今度は少しだけ寂しそうだった。
「それでいいんじゃない?」
「何がですか?」
「分からないままでも」
私は返事をしなかった。
店の中では、いろんな人が笑っている。
誰かが誰かを見ている。
誰かが誰かを選んでいる。
その中で私は、いつも相手に合わせている。
笑う。
話す。
近づく。
離れる。
それが仕事だから。
そう思っていた。
なのに最近は、
誰に対して、どのくらい笑っていたのか。
誰の言葉を覚えていたのか。
そんな小さなことまで気になってしまう。
そして一番困るのは、
自分がその違いに気づき始めていることだった。
コメント
1件
第53話、読み終えました…。 高槻さんの「目だけが笑っていなかった」って描写、すごく刺さりました。いつも軽い人だからこそ、その違和感が怖くて、でもなぜか目が離せなくなる感じ。真瀬さんの「無理しなくていいよ」も、優しさなのに、読んでるこっちの胸がぎゅっとなりました。 誰にどう笑うか、ちゃんと「違い」に気づき始めてるナナちゃんの繊細な変化、すごく丁寧に描かれてて…この静かな重さ、好きです。続き、気になります🌙