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#現代ファンタジー
るるくらげ
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けれど彼は、その光を呑み込むように歯を食いしばった。
「ロビサ、名を!」
鬼の中に沈んだ名前を拾えという意味だ。
ロビサは鏡を深く覗き込み、頭痛に耐えながら音を拾った。
――エルミ。
「エルミ!」
名を呼んだ瞬間、鬼の輪郭が大きく揺れる。
ハディジャが真正面から飛び込み、砕けた石台の破片を鬼の胸へ叩き込んだ。モンシロの刃がそこへ重なり、影の体が内側から崩れる。最後にリュバの針がひびを広げ、鬼は静かに散った。
靄の向こうでは、布で顔を隠した男たちが逃げようとしていた。だが貯蔵庫の入口で、レドルフが悠々と立ち塞がっている。どうやって追いついたのか、いつもの派手な上着の裾を払って、にこりともしない顔で言った。
「台詞もなく退場するのは感心しないな」
次の瞬間、彼が足もとの縄を引く。いつの間にか仕掛けていたらしい。男の一人が転び、モンシロが取り押さえた。残り二人は奥の割れ目へ飛び込み、そのまま迷の暗がりへ逃げた。
「追うな!」
モンシロが叫ぶ。
直後、天井が嫌な音を立てた。瘴気で脆くなっていた梁が、戦いの衝撃で軋み始めている。
ロビサはレイノルデのもとへ膝をついた。
「先生、歩けますか」
「歩ける。……心配をかけたな」
声は掠れていたが、目はいつものように落ち着いていた。こういうときまでこの人は、まずこちらを落ち着かせようとする。
脱出のために通路へ戻りかけたところで、大きな崩落が起きた。後ろの天井が落ち、石と土煙が退路を塞ぐ。
「ちっ」
ハディジャが振り返る。
「戻り道が潰れた」
「横穴がある」
レイノルデが咳き込みながら示した。
「昔の避難室へ繋がるはずだ……浅層の、北側だ」
モンシロが短く判断する。
「そちらへ」
狭い横穴を進む間、誰も無駄口をきかなかった。ようやく崩落音が遠のいたころ、五人は小さな避難室へ転がり込むように辿り着いた。古い木机と、割れた水瓶と、朽ちかけた棚があるだけの部屋だが、扉を閉めればひとまず外の瘴気は薄い。
ロビサは壁に手をつき、乱れた呼吸を整えた。ハディジャは入口へ耳を澄まし、リュバはレイノルデの腕の痺れを確かめている。レドルフがやれやれと息を吐いた。
「芝居なら幕間だな」
「笑えません」
ロビサが言うと、彼は肩をすくめた。
「笑わないと息が詰まるだろう」
そのとき、レイノルデがロビサを呼んだ。
「こちらへ」
床に膝をつくと、彼はしばらく黙ってから言った。
「お前の母君のことだ」
ロビサの指先が、じわりと冷える。
「彼女は元被害記録官だった」
「……やはり」
「現場で集まる鬼害記録と、王家の儀式録と、禁書庫の封印文。その三つを、長い時間をかけて照合していた。誰にも言わずにな」
レイノルデは一度、痛みに眉を寄せたが、続けた。
「最初は偶然の誤差だと思っていた。だが、記録の食い違いがあまりに規則的だった。花嫁儀式に都合の悪い文だけが、少しずつ削られていた。彼女は、それが後世の改竄だと気づいた」
避難室の空気が、また静かになった。
「追われていたのですか」
ロビサが問う。
「そうだ。証拠をまとめていたが、途中で察知された。だから手紙を一つに残さず、破り、隠し、相手にも完全な形では渡さなかった」
「私を、守るために」
レイノルデはゆっくり頷いた。
「蒼い鏡は候補者を見分ける。お前が欠片へ触れた日から、彼女は最悪の形を恐れていた。真実を暴くことと、お前を隠すこと。その二つを同時にやろうとして、最後まで諦めなかった」
胸の奥で、何かが痛んでほどけた。
自分はただ選ばれたのだと思っていた。たまたま鏡に目をつけられた、不運な候補者だと。けれど違った。母は知っていて、それでも自分を守る手を打っていた。逃げるだけではなく、戦うための証拠まで残して。
ロビサは俯いた。涙がこぼれる前に止めようとしたが、うまくいかなかった。雫が一つ、石床へ落ちる。
「泣いていい」
レイノルデが言った。
「今はまだ、次を考える前でいい」
その言い方が昔と同じで、ロビサは笑うように泣いた。
ハディジャが少し離れた場所で、何も言わずに立っている気配があった。近づきすぎず、背を向けすぎず、ただここにいるという距離だ。その不器用な気遣いが、今はありがたかった。
やがてロビサは袖で目元を拭い、顔を上げた。
「母が残したもの、全部拾います」
声はまだ少し掠れていたが、はっきりしていた。
「誰かに都合のいい形へ直される前に、私が記録します」
モンシロが頷き、リュバは工具袋の口を閉じ直す。レドルフは、ようやく少しだけ笑った。
「いい顔になった」
「ほめても何も出ません」
「返しが戻ったなら上出来だ」
外では、崩れた石の向こうから、迷の風が低く鳴っていた。
帰路は塞がれた。監視の目をかいくぐって出てきた一行は、今や地下の避難室へ閉じ込められている。
それでもロビサは、さっきまでより息がしやすかった。
母が守ったものを、自分も守る。
その輪郭が、やっと自分の中で言葉になったからだ。
避難室の古びた扉が、外から乾いた音を返す。完全に安全ではない。休める時間も長くはないだろう。
だが今だけは、崩落の向こう側へ急かされず、同じ部屋で息を整えることができる。
ロビサは蒼い鏡の欠片を掌へ載せた。青い光は弱く、けれど消えていない。
破り捨てられた手紙も、消えてはいなかった。
母の意思も、まだここにある。
ならば、次は自分が繋ぐ番だった。
【終】