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#現代ファンタジー
るるくらげ
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避難室の石壁は、息を吸うたびに冷たさを返してきた。
扉の向こうでは、迷の風が細く鳴っている。崩落で塞がれた通路の先から、ときおり石のこすれる音が届くたび、誰もが無意識に顔を上げた。安全ではない。かといって、今すぐ動ける体力も残っていない。その半端な静けさが、かえって人の気持ちをささくれ立たせる。
モンシロは扉の脇に座り込んだまま、短剣の刃を布で拭っていた。刃についた黒い筋が、拭っても拭っても薄く残る。リュバは棚板を外して即席の寝台を作り、レイノルデをそこへ座らせている。レドルフは床へ長い脚を投げ出し、天井の染みを眺めながら、芝居の書き換えでもしているような顔で黙り込んでいた。
ロビサは木机の端へ腰を下ろし、蒼い鏡の欠片を布で包み直した。欠片は静かだ。さっきまで走っていた青い脈動が嘘のように、ただ冷たい。
「顔が固い」
低い声が近くでした。見ると、入口から少し離れた場所にハディジャがしゃがみ込み、革袋の中身を床へ広げていた。釘、細い縄、折り畳みの小鍋、油紙に包んだ干し肉、干し豆、焼き固めた黒パンのかけら。便利屋の袋というより、夜逃げ前の台所みたいな中身だ。
「人の顔を評価しないでください」
「評価じゃない。確認だ」
「同じです」
「違うな。評価なら、今のは『噛みつきそうで怖い』までつける」
ロビサはじろりと睨んだ。だが、ほんの少しだけ肩の力が抜けたのも事実だった。
ハディジャはその反応に気づいたようで、口の端を上げた。
「ほら、怒れるならまだ平気だ」
そのとき、扉の外で小さく二度、三度と叩く音がした。
全員の動きが止まる。
モンシロが音もなく立ち上がり、短剣を構えた。ハディジャも床の鉄棒を拾う。ロビサは記録針へ指を添えた。
四度目のあと、聞き覚えのある女の声が扉越しに響いた。
「開けなさい。熱が逃げるでしょうが」
エナシェだった。
モンシロが一瞬だけ目を見開き、すぐに閂を外す。扉が開いた途端、薬草と湯気と土の匂いが一緒に流れ込んだ。エナシェは背中に大きな籠を負い、片手に煤けた鍋、もう片手に布包みを提げて立っている。髪には石粉がついていたが、本人はそんなことを気にする顔ではない。
「道が半分潰れてて難儀したわ。誰も迎えに来ないから、自分で来た」
「どうやってここを」
ロビサが問うと、エナシェは当然のように言った。
「リュバが工具に塗る油の匂いと、あんたたちの焦げた外套の匂いを追ったのよ」
「犬より確かですね」
「失礼ね。私は鍋の番人よ」
言いながら、彼女はずかずか室内へ入り込み、木机の端へ鍋を置いた。籠からは干し根菜、保存肉、薬草、小袋に入った塩まで出てくる。どこからどう見ても、本気で食べさせるつもりらしい。
「こんなところで火は」
モンシロが言う。
「煙が出ない煮方はあるわ」
エナシェは平然としている。
「それに、腹を空かせたまま考えた作戦は、大体ろくなことにならない」
反論できる者はいなかった。
彼女は部屋の隅の石皿をひっくり返して竈代わりにし、乾いた薬草を細かく裂いて火種へした。火は小さかったが、鍋底へ当たる音は妙に安心する。湯が温まる気配というのは、それだけで人の気をほどくのだと、ロビサは初めて知った。
干し肉と豆が鍋へ落ち、根菜の欠片が続く。最後に、エナシェが揉んだ葉をふり入れると、地下の黴臭さの奥から、野の匂いに近い青さが立ち上った。
「はい、そこのしかめ面。水」
「誰のことですか」
「あんた以外にいる?」
ロビサはむっとしながら水瓶の残りを差し出した。エナシェは受け取り、鍋へ注ぎながらちらりと彼女の顔を見る。
「泣いた目をしてる。塩を多くしすぎると余計につらいから、今日は薄めで我慢しなさい」
その言い方が妙に普通で、ロビサは返事に詰まった。
やがて、細い湯気が避難室の天井へたまり始める。レドルフが鼻をひくつかせ、わざとらしく片手を胸に当てた。
「死地にあってもなお、温かい汁物に救われるとは。ああ、観客よ、これが人の弱さであり尊さだ」
「始まった」
ハディジャが呟く。
レドルフは立ち上がると、崩れた棚板を舞台の縁に見立て、片足をかけた。
「諸君、もしこのまま我らが地下で果てるならば、せめて最期の言葉くらいは気の利いたものを選ぶべきだと思わないか」
「思いません」
ロビサが即答すると、彼は人差し指を立てた。
「硬い。そういうところだぞ、記録官見習い。最期の台詞ひとつで、残される者の食欲まで変わる」
「死ぬ前提で鍋を待たないでください」
「では練習だ」
彼は咳払いをして、急に重々しい声を作った。
「『我が人生に悔いはない。ただし借金帳だけは焼いてくれ』」
ニッキーがいれば絶対に許さない台詞だ、とロビサは思った。
【続】