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#現代ファンタジー
るるくらげ
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ロビサは腰の記録箱から、小さな羊皮紙片を引き抜いた。ムーンストーンを嵌めた記録針の先が、青く震える。現場で死者の名をつなぐのと同じ姿勢で、彼女は膝の上に紙を置いた。
「ロビサ、何を」
ヴィットリアーナの声が遠い。
「被害記録です」
ロビサは答えた。
「この人は今、鏡に名を奪われかけている。なら記録官として、今の名をつなぎ止める」
針先を紙へ当てる。
ハディジャ。
最初の一画を書いたとき、結界の音が少しだけ濁った。
彼女はもう一度、声に出す。
「ハディジャ」
彼の肩が震える。
返事はない。
それでもロビサは続けた。
「ハディジャ。下町で扉を直して、子どもに薬を持っていく人。迷の中でくだらない言い間違いをして、皆を笑わせた人。私を勝手に優等生と呼ぶ、礼儀知らずの便利屋」
言いながら書く。書きながら呼ぶ。
記録針の青光が紙の上で細く走り、名の輪郭を縫い留める。
「おい……その紹介、だいぶひどいぞ」
かすれた声が落ちた。
ロビサは顔を上げる。
ハディジャが、苦しそうに眉を寄せたまま、ほんの少しだけいつもの表情を覗かせていた。だが次の瞬間にはまた黒い文字が脈打ち、彼の瞳の奥へ暗さが差し戻る。
「まだです」
ロビサは紙を握り直した。
「戻ってきなさい。あなたの名は、まだここにある」
彼女はさらに書き足した。
拾った釘の位置を子どもより先に覚えること。年寄りの荷物を文句を言いながら持つこと。薬代を肩代わりして怒られること。ロビサが泣きそうな顔をしているときだけ、妙に冗談が下手になること。
名は、音だけではない。
人の積み重ねだ。
誰にどんな顔を見せ、どんな失敗をして、何を笑ってきたか。その全部が、その人の名を支えている。
ロビサは知っている。七日後に人が忘れていくのは、顔、声、名、しぐさの順だ。なら逆に呼び戻すなら、しぐさからでもいい。今日のことからでもいい。今の彼を、今の名へ結びつければいい。
「ハディジャ!」
今度は、ただの呼びかけではなかった。
叱責でも、願いでもない。記録として刻む声だった。
大聖堂前の鏡光が、びり、と震えた。
ハディジャの口元が歪む。苦悶と、笑いと、泣きそうな何かが一度に押し寄せたみたいな顔だった。
「……やめろ」
「やめません」
「そんな顔で呼ばれると……戻るしかなくなるだろ」
次の瞬間、彼の全身から力が抜けた。
前のめりになった体を、ロビサが抱き留める。黒い封印文字は消えていない。けれど暴れる脈動は弱まっていた。呼吸も、さっきより浅くない。
ウマルが息を呑む音がした。
「名を……戻したのか」
「まだ少しです」
ロビサはハディジャを支えたまま、階段の上の青年士官を睨んだ。
「でも鏡が欲しがっているのは、生贄じゃない。人の名です。あなたの起動は、都じゅうからそれを削っている」
ウマルの顔に、初めて迷いが走った。
広場で泣く声。記憶を失った人々の混乱。半ば正気を取り戻した器候補。そのどれもが、自分の信じた勝利の形を少しずつ崩していく。
だが空の結界は止まらない。
止める術式を握る者が、まだ鏡の内側にいるのだ。
ヴィットリアーナが階段上の扉を見た。
「中へ入るわよ。起動核は大聖堂の主祭壇下にあるはず」
モンシロが頷く。
「ハディジャは」
「行く」
当の本人が、ロビサの肩に手を置いて立ち上がった。足元はまだ危うい。それでも目の焦点はさっきより合っている。
「全部戻ったわけじゃねえ。でも、今どこにいるかくらいはわかる」
「無理です」
ロビサは即答した。
「さっきまで暴走していた人を、これ以上鏡の近くへ連れていけません」
「じゃあここに置いていくか」
ハディジャは弱々しく笑った。
「それこそ次に転んだら終わりだ。なら、あんたの見えるところにいさせろ」
その言い方がずるいと思った。
だが反論できない自分が、もっとずるい。
ロビサはさっき記した紙片を折り、胸の内ポケットへしまう。
これは現場記録だ。誰にも渡さない。まだ途中だからだ。彼の名を完全につなぎ止めるには、きっとこれだけでは足りない。
空では巨大な鏡像結界がなお鳴り続け、都のそこかしこで人々が誰かの名を呼んでいる。
忘れたくなくて。
思い出したくて。
失わせたくなくて。
ロビサはハディジャの細索を握り直し、階段の最初の一段へ足をかけた。
「行きます」
大聖堂の扉の向こうには、まだ百年前の残響が待っている。
けれど、さっきと違って、ロビサの手の中には確かなものがあった。
呼び返した名の重みだ。
それは鏡よりも冷たくなく、迷よりも深くなかった。
人ひとりを、この世へ留めるには十分な重さだった。
【終】