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#現代ファンタジー
るるくらげ
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大聖堂の扉は、押してもすぐには開かなかった。外から見たときはただ古く重いだけの扉だったのに、いざ前へ立つと、向こう側からこちらの名を確かめるような気配があった。青白い鏡光が継ぎ目から細く漏れ、石床に縦の線を引いている。
モンシロが肩を入れる。
「レドルフたちは広間を抑えている。長くは持たないぞ」
「わかっています」
ヴィットリアーナが答え、腰の鍵束から細い銀鍵を一本抜いた。監察院の封印調査に使う、古文書庫の鍵だ。扉脇に彫られた古い紋へ差し込むと、金属ではなく濡れた骨のような手応えがあったらしい。彼女の眉がわずかに寄る。
「……気味が悪いわね」
「似合ってますよ、その顔」
ハディジャがかすれ声で言う。
「褒めてないでしょう」
「生きてるっぽくて安心する」
言い返すだけの力が戻っていることに、ロビサは胸の奥でそっと息をついた。
錠が外れると同時に、扉が内側へ沈むように開いた。冷気が流れ出る。香の匂いに混じって、古紙と血と、湿った石の臭いがした。
中は円形の前室になっていた。天井のない井戸の底みたいに暗く、壁面いっぱいに薄い鏡片が埋め込まれている。そのひとつひとつへ、都のどこかで失われかけた名前の断片が、白い息のように映っては消えていた。
母。
兄。
店の娘。
昨日まで呼んでいたはずの名が、音の形だけ残して砕けていく。
「これ……」
ロビサは思わず記録箱を抱き締めた。
「鏡が集めた名の屑だ」
ハディジャが低く言った。
「さっき広場で聞こえた。こいつ、都じゅうから削ったものをここへ溜め込んでる」
奥の祭壇には、本体の蒼い鏡が立てられていた。人の背丈より高い楕円の鏡面は、青というより深い夜の色をしている。その前に置かれた石卓には、羊皮紙、銀皿、封蝋、古い記録針が並び、まるで儀式の支度の途中で時間だけが百年止まっていたみたいだった。
そして石卓の横には、見慣れた顔が二つあった。
「遅い」
ニッキーが封書箱を抱えたまま、実に事務的な声で言った。
「死ぬなら連絡くらい寄越してください」
「縁起でもないことを言うな」
モンシロが唸る。
隣でリュバは安堵したように肩を落とした。
「よかった、間に合った。外の裏回廊、崩れかけていてひやひやしたよ」
「二人とも、どうしてここに」
ロビサが問うと、ニッキーは抱えていた箱を石卓へ置いた。
「あなたのお母さまの手紙、全文復元できたの。最後の欠片が、王城地下の旧封印庫にあるとわかったから取りに来た。ここに運ばれていたのよ。おそらく改竄の証拠をまとめて封じるために」
封書箱の蓋が開く。
中には、繊維の継ぎ目もわからないほど丁寧に修復された手紙が一通と、その下にもう一枚、さらに古い薄茶の紙があった。後者は写しだ。紙端に百年前の記録局印がかすれて残っている。
ロビサの指が震えた。
「母さんの……」
「読むなら今です」
ヴィットリアーナが言う。
「ここを動かす理屈が書かれているなら、迷っている時間はない」
ロビサは頷き、封蝋の割れ目へ爪を差し入れた。
最初の文字を見た瞬間、懐かしさより先に、喉が詰まった。
母の筆跡だった。急いで書いたときだけ、二画目が少し跳ねる。昔、台所の買い置き表にも同じ癖があった。
『ロビサへ。あるいは、わたしが最後まで守りきれなかった誰かへ』
ロビサは唇を噛み、続きを追う。
『鏡は名前を映す道具だった。死者のためではない。奪われた者を返すための器だった。百年前、記録官サラフィナと、鬼になりかけた青年アジュマルは、互いの名を正しく書き留めることで、鬼の発生そのものを鎮める術式を作ろうとした』
ハディジャの呼吸がかすかに乱れた。
アジュマル――その名は、彼の体内にいる残響が時折吐き捨てる断片と同じ響きを持っていた。
『二人は恋をしていた、という言い方では足りない。互いが互いを殺さずに済む書き方を、必死に探していた。けれど王家の一派は、それを許さなかった。名を返す術は、人を支配する手段にならないから。だから儀式文は書き換えられた。「鏡に選ばれた花嫁を捧げよ」と。生贄が必要なのではない。必要なのは、改竄される前の封印文を、正しい手順と正しい名で記録し直すこと』
石室の奥で、鏡が低く唸った。
ロビサはもう一枚の写しへ目を移す。そこには百年前の筆跡で、術式の骨組みが記されていた。
『名を奪うものには、名を返す』
『恐れに喰われるものには、呼び戻す声を置く』
『器へは剣ではなく記録を』
『花嫁を捧ぐるな。対なる二名を誤りなく記し、鏡の飢えを閉じよ』
最後の一文だけ、墨が大きく乱れている。誰かがそこを上から削った痕もあった。百年前の誰かが必死で残し、後の誰かが必死で消した跡だ。
「……生贄なんか、最初から要らなかった」
ロビサの声は、自分でも驚くほど静かだった。
リュバが小さく頷く。
「ムーンストーンの調律値も一致した。今の鏡は、封印じゃなく収奪の配列で動いている。正しい文章を書き戻せれば、流れは反転するはずだよ」
「書き戻せれば、ね」
ヴィットリアーナが鏡面を見上げる。
「問題は、そこへ辿り着くまでに何人の名が削られるかだわ」
【続】