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朝。
「おはよ」
澪継は、もう迷わず言う。
「おはよー」
春真が返す。
それが“普通”になり始めている。
「……今日、雨」
窓の外を見ながら言う。
「マジか。だる」
「……部活、あるの」
「ある。室内だけど」
「そっか」
会話が、三往復。
増えている。
ほんの少しずつ。
教室。
席に着く前に、澪継は一瞬だけ立ち止まる。
選ぶ。
“どこに立つか”じゃない。
“どう関わるか”。
「……おはよ」
後ろの席。
「ああ」
いつもの反応。
でも、無視ではない。
「……昨日のとこ、もう一回いい?」
ノートを指す。
「あー、いいけど」
開かれる。
「ここ、なんでこうなるの」
「それは――」
説明が始まる。
短い言葉。
「……なるほど」
理解する。
「ありがと」
「おう」
一拍。
「……なあ」
澪継が続ける。
「ん?」
「名前、なんだっけ」
空気が、一瞬止まる。
「は?」
当然の反応。
「……ちゃんと呼びたい」
言い訳でもなく、本音でもなく。
ただ、必要だから言う。
「……坂本」
少し間を置いて、答える。
「……坂本」
繰り返す。
「うん」
「……ありがとう」
それだけで、終わる。
でも――
“おい”じゃない。
初めて、名前で呼ぶ準備ができた。
三時間目後。
「なあ」
いつもの三人。
「昼な」
「……うん」
頷く。
でも、そのあと。
「今日、外?」
聞く。
「なんで」
「……昨日、外だったから」
理由をつける。
「はは、気に入ってんじゃん」
笑い。
「……違う」
少しだけ強く否定する。
「ただ、分かってた方がいい」
同じ言葉。
でも、言い切る速度が違う。
「今日は中」
「……そっか」
短く受け取る。
昼休み。
机が動く。
空間ができる。
「来い」
呼ばれる。
歩く。
止まらない。
「今日はさ」
「……うん」
先に返す。
「順番、変える」
「……どこから」
自分で聞く。
「お、いいね」
笑い声。
「じゃあ後ろから」
「……わかった」
一度、目を閉じる。
それから開く。
動く。
囲まれる。
距離が詰まる。
視線が集まる。
「……」
澪継は、一瞬だけ外を見る。
教室の外。
廊下。
誰もいない。
「集中しろ」
「……うん」
戻る。
続ける。
順番を、なぞる。
間違えないように。
止まらないように。
「いいじゃん」
「昨日よりいいな」
評価。
それは――
“やりやすくなる”という意味でもある。
回数が増える理由でもある。
「……」
分かっている。
それでも、止まらない。
途中。
「次」
声。
「……それで最後?」
聞く。
「は?」
「区切り」
言葉を変える。
直接じゃなく。
でも、意味は同じ。
「……まあ、今日はな」
曖昧な許可。
それでいい。
「……わかった」
最後までやる。
終わらせる。
自分の中で、線を引くために。
終了。
「はい終わりー」
散る。
机が戻る。
空気が解ける。
「今日いいじゃん」
「ちゃんとしてる」
笑い声。
その中に、少しだけ“扱いの変化”が混ざる。
席に戻る。
座る。
手を見る。
震えは、ほとんどない。
「……」
息を整える。
そのとき。
「おい」
後ろから声。
振り返る。
坂本。
「ノート」
差し出される。
「……あ」
「さっきのとこ、写せば」
「……ありがとう」
受け取る。
ページを開く。
「……坂本」
名前を呼ぶ。
少しだけ、間を置いて。
「ん?」
「……助かった」
短く言う。
それだけ。
「……おう」
少しだけ、反応が変わる。
無視じゃない。
軽いけど、ちゃんと受け取られている。
放課後。
「帰る?」
春真。
「……うん」
並ぶ。
歩く。
雨は、少し弱くなっている。
「今日どうだった?」
いつもの質問。
「……昨日より、楽」
初めて、少しだけ具体的に答える。
「へえ」
「……順番、分かってたから」
理由も付ける。
「なるほどな」
納得する。
軽く。
「……」
少し間。
「なあ」
澪継。
「何」
「……名前で呼ぶのって」
言葉を選ぶ。
「どのタイミング」
聞く。
そのまま。
「は?」
少し笑う。
「急だな」
「……必要だと思って」
正直に言う。
「まあ、普通に話した後とかじゃね?」
「……今みたいに」
「そうそう」
「……そっか」
理解する。
基準が増える。
家の前。
屋根に落ちる雨音。
「……ありがと」
また言う。
「何が」
「……さっきの」
少しだけ、間。
「別に」
軽い返事。
でも――
拒否ではない。
玄関。
「ただいまー」
「おかえり」
「……ただいま」
今日も、返事はない。
でも――
澪継は、少しだけ止まる。
靴を揃えながら。
「……」
今日、自分は
・名前を聞いた
・名前を呼んだ
・会話を続けた
小さい。
でも、確実に。
“誰かと繋がる側”に、一歩だけ寄っている。
「……坂本」
小さく呟く。
名前。
呼べる形になったもの。
それは――
この場所では、ほとんど持っていなかったもの。