教室の裏、夕方。まるでなにも変わらない声で、蓮司は遥の名を呼んだ。
「……なんだよ」
遥は笑ってみせる。無理やり口角を上げて、冗談にすり替えた。
けれど、背中のどこかがずっと冷えていた。
「変わってねぇな。お前は」
蓮司は柔らかく笑いながら、遥の頬に手を伸ばす。
反射的に遥の体が硬直する。
――でも、声は出なかった。
それが怖かった。
蓮司の手の温度も、息遣いも、目線の流れも、全部知っている。
それは遥の中に“しみついたもの”で、
暴力でもなく、優しさでもない、
ただただ「支配」として染みついた記憶だった。
「……離せよ」
口ではそう言いながら、遥は一歩も動けなかった。
逃げられないのではない。
“逃げ方”を忘れていた。
そのとき――
「遥」
不器用な声が、向こうから聞こえた。
日下部だった。
息を呑んだ瞬間、蓮司の指が止まる。
遥がそのままふらりと後ずさると、蓮司は何も言わず肩をすくめた。
「お前って、つまんないやつになったな」
そう吐き捨てて去っていく蓮司の背中に、遥は声をかけられなかった。
夕方の路地裏、遥と日下部は並んで歩く。
どちらも口を開かなかった。
遥は思っていた。
蓮司に会って、また何か「戻る」かもしれないと思った。
でも、それはなかった。
けれど――
心の奥では、わずかに痛みと安心が同時に残った。
日下部が隣にいることで、「蓮司の支配」が過去になっていくような、
でもその分、自分の中の軸が崩れていくような――
そんな、意味の分からない喪失。
遥は、静かに目を伏せた。