「そうだよね。実は、私もそう思っていたんだよ」
久美子と戸田が息を飲んで私の背後に目をやった。
「私もここで一緒に飲んでいいかな?」
背筋に悪寒が走る。振り返ることができない。
何も気づいていない大宮が、憎たらしいほど陽気な声で答える。
「どうぞどうぞ。課長はビールですか。お注ぎしますね」
大木は、大宮が空けた私の隣に当然のように腰を下ろした。笑顔で私たちに話しかける。
「こうやってみんなで飲むのは久しぶりだよね。年度末は本当にお疲れ様でした。改めて礼を言うよ」
「やっぱり、この三人がいてこその我々営業ですよね。いつも本当に助かってるんですよ」
私たちはそれぞれに愛想笑いを浮かべて、大宮と大木の話を聞いていた。
大丈夫かと気遣うように、戸田が目を細めて私を見ている。それに対し私も「大丈夫だ」と目だけで答える。しかし本当は体全体が鳥肌立ち、ざわざわしっ放しだった。
「あぁ、そうだ。さっき大宮君が言っていたことが聞こえたんだけど。もしかして、早瀬さん、近々いい話でも聞けるのかな?」
顔が引きつりそうになった。その上に無理やり笑顔を貼り付ける。
「い、いいえ。いい話なんて何もありません」
「ふぅん、そうなの。てっきりそれが理由で綺麗になったのかと思ったんだけどねぇ」
大木の目の奥に粘着質めいた色がちらついて見えた。体がすくむ。
そこに戸田が冗談めかした口調で口を挟んだ。
「大宮さんもでしたけど、課長ってば、そういうのはセクハラですよぉ」
「おや、そうなのか。ただ褒めたつもりだったんだけどね」
「その、『つもり』が危ないんですからね」
戸田は笑いながら大木のグラスにビールを注いだ。しかし勢い余ってか、テーブルに小さな水たまりを作ってしまう。
「あっ!すいません!手が滑ってしまって!あ、課長、袖が!申し訳ありませんっ!ちょっと、大宮さん、新しいお絞りとか頼んで下さいよっ」
一気にわぁわぁと騒がしくなった。その隙に久美子が私の袖を引っ張る。
「気分が悪そうよ。いったん部屋の外に出よう」
「う、うん、そうするわ」
テーブルを回り込んできた久美子が私に手を差し出す。
その手につかまりながら、私はその場を離れた。
やや静かな通路に出て、少し落ち着く。
久美子が心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「えぇ。助かったわ」
「さっきの戸田、なかなかいい仕事してくれたわね。それにしても、まさかあのタイミングで来るとは思わなかったわよ。油断した」
「でも仕方ないわ。完全に避けられるとも思っていなかったしね。でも、二人と一緒にいて本当によかった。ありがとう」
私はしみじみと礼を言った。もし二人といなかったら、大木をうまくかわせたかどうか怪しい。
「ところでさ」
久美子の口調が変わった。
「うん?」
「いいこと、本当はあったでしょ?」
「別にないわよ」
「私には隠さなくてもいいんじゃないの?大宮さんじゃないけど、綺麗になったなぁ、って思って見てたのよ。何となく想像はついているけどね。それで?いつ話してくれるのかな?」
「えぇと……」
普段から助けてもらっている久美子と戸田には、もちろん話すつもりでいる。ただ、もう少し色々なことが決まったら、と考えていた。
「そのうち、かな……?」
私は曖昧に言葉を濁した。
「ふぅん。それじゃ、それまで待ちますかね。それならさ、ほんと、あの人には気をつけた方がいいわよ。たぶん、気づいてる」
「何に気づいたっていうの」
「佳奈が綺麗になった理由」
「綺麗になったなんて言ってもらって嬉しいけど、何も変わってないわよ。変わる程の理由もないし」
「そう思ってるのは、自分だけなんだって。で?今日はもちろん一次会で帰るんでしょ?帰りはどうするの?私は旦那が迎えに来てくれるんだけど、乗せて行こうか?」
それはとてもありがたい申し出だ。しかし。
「えぇとね、ちょっと待ち合わせをしていて……」
久美子の目が見開かれた。私をしげしげと見ていたが、次第にその顔ににやにや笑いが浮かんでくる。
「へぇぇ……」
「な、何よ」
「いや、別に」
久美子は笑いを抑えるように口元を手で覆う。
「それなら余計に注意しなさいよ」
「もちろん分かってるわ」
私は大きく頷き、腕時計に目を落とす。
「さて、そろそろ戻らないとね」
「そうだね。あと三十分くらいかぁ。もう一杯くらい飲めるかしらね。何飲もうかな」
久美子の後に続いて部屋に戻る途中、持って出ていたバッグの中からメッセージの通知音が聞こえた。
「ごめん。先に行ってて」
「一緒に行った方がいいよ。まだあの人がいたら面倒でしょ」
「じゃあ、ちょっとだけ」
急いで携帯を見る。案の定宗輔からのメッセージだった。仕事が終わり、これから楡の木に向かうという連絡だった。今夜はこの後、田上に私たちのことを伝えに行こうという話になっていた。あと三十分ほどで終わると返信して、携帯をしまう。
「ごめん、お待たせ」
「どういたしまして。ねぇ、幸せそうな顔してたよ。顔、直してから戻った方がいいんじゃない?」
久美子にからかわれて、私は慌てて自分の顔を抑えた。
恐る恐る部屋に戻り、大木の居場所を確かめる。彼は元の席にいて、支店長と話し込んでいる様子だった。
ほっとしながら久美子と一緒に戸田に合流し、最後の締めにジェラートを注文した。
新年会はほぼ時間通りに散会となった。他の者たちと一緒になって、がやがやと店の外に出る。久美子と戸田は先に行ってしまったのか、姿が見えない。どこだろうと探している時、不意に背後に大木が立った。
「もう帰るのかな?」
心臓がドクンと大きな音を立てた。首筋が強張る。
目線のすぐ先に久美子と戸田を見つけた。しかし二人はこちらに気づいていない。他の男性たちも同様で、今のこの時、大木と私に注意を払っている者はいなかった。
私は聞こえなかったふりをして、急いで久美子たちの方へ移動しようとした。ところが、それを引き留めるように大木の手が肩に乗った。触れられたところから全身に悪寒が走る。
「この後二人で飲みに行かないか?」
「い、いえ、もう帰りますので」
「そんなこと言わずにさ。色々と話をしたいんだけどね」
「課長!課長はこの後どうします?」
ちょうどその時大木を呼ぶ声が聞こえた。
そのおかげで大木の気が私から逸れ、手が外れた。その隙に、私は久美子たちの傍へと急いで向かう。気持ちを落ち着かせるため深呼吸をし、二人に口早に告げた。
「ごめん、今のうちに帰るわ。また来週ね」
私はその場から離れ、逃げるように繁華街の人の波に紛れ込んだ。
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