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その子は、名刺に書いてある会社の名前を三回聞いて、三回とも違う言い方をした。覚えられないわけじゃない。ただ、つながらない。
言葉と意味が、いつも少しだけズレている。
「……ねえ、ミオちゃんって、天然なの?」
後ろの席の女の子が、笑いながら言った。
悪意は、たぶん、ない。
でも私は、その瞬間に胃が縮むのを感じた。
その子――ミオ――は、場内指名が少ない。
ドリンクを勧めるタイミングがずれる。
相手の冗談を冗談として受け取れない。
でも、手を抜かない。
一生懸命で、真面目で、嘘がつけない。
「ミオちゃん、もう少し空気読まないとね」
別の女の子が言う。
言葉は柔らかい。でも線を引く言い方だった。
“こっち側”と“あっち側”を。
私は、グラスを拭く手を止めた。
理由は、説明できない。
ただ、身体が先に動いた。
「それ、別に悪いことじゃなくない?」
声は低かった。
店で使う声じゃない。
周囲が一瞬、静かになる。
ミオは、きょとんとして私を見る。
「だってさ、ミオちゃんはちゃんとやってるじゃん。
できないことだけ見て、笑うの、違うと思う」
言い切った瞬間、胸が苦しくなった。
これは“いい人”の発言じゃない。
線を越える発言だ。
奥の席にいた男が、ちらっとこちらを見る。
――常連。
私を「賢い」と言うタイプの男。
その隣には、最近来るようになった別の男。
若くて、無遠慮で、場を面白がるタイプ。
彼は、面白そうに口角を上げた。
「へえ。庇うんだ」
その言い方が、刺さる。
“庇う”という言葉が、私の中で反響した。
ミオは、私の袖を引いた。
「……私、変?」
その質問に、私は一瞬、息が詰まった。
正解を知っている質問じゃない。
でも、間違えられない質問。
「変じゃない。
ただ、得意と不得意が、人と違うだけ」
ミオは、少し考えてから、うなずいた。
完全に理解した顔じゃない。
それでも、安心した顔だった。
バックヤードで、先輩の女の子が言った。
「ねえ、ああいう子、正直めんどくさくない?」
私は答えなかった。
答えられなかったんじゃない。
答えると、自分がどこに立っているか確定してしまうから。
常連の男が、後で言った。
「君、優しすぎるよ。
ああいう子を庇うと、損する」
私は、笑った。
仕事の笑顔で。
「そうですか?」
その夜、終電で帰る途中。
私は、ミオと並んで座った。
ミオは、スマホの路線図を何度も拡大していた。
「ねえ」
「うん?」
「私、ここにいていいのかな」
私は、すぐに答えなかった。
“いいよ”と言うのは簡単だ。
でもそれは、責任を引き受ける言葉だ。
「……分かんない」
正直に言った。
「でも、ミオちゃんがいなくなって、何かが良くなる気はしない」
ミオは、また少し考えて、笑った。
その笑顔を見た瞬間、私は思った。
この子をかばったのは、善意じゃない。
過去の自分を、重ねたからだ。
分からないと言われる側。
ズレていると言われる側。
説明できない側。
そして気づく。
今日、線を引いたのは自分だ。
「もう、黙ってやり過ごす感じじゃなくなった」
そうなった自分が、少し怖かった。