テラーノベル
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その男は、私を指名しない。指名しないくせに、週に一度は必ず来る。
名前はまだ覚えてない。
年齢も、仕事も、ちゃんと聞いていない。
ただ、席につくと必ず同じことを言う。
「今日も、無事そうだね」
無事、という言葉が少しだけ引っかかる。
ここは無事を確認する場所じゃない。
「どういう意味ですか」
そう返すと、男は少しだけ笑った。
説明しない笑い方だった。
隣の席では、ホストにハマってる子が泣いていた。
連絡が返ってこないらしい。
さっきまで、平気な顔でドリンクを運んでいたのに。
「大丈夫?」
と誰かが聞く。
「大丈夫」と彼女は言う。
誰も本気では受け取らない。
私は、その男のグラスを見た。
まだ半分も減っていない。
「今日は、延長しないんですか」
仕事の言葉で聞いた。
男は首を振る。
「しない。君が疲れそうだから」
そういう言い方をされると、距離を測り直さないといけなくなる。
優しさなのか、観察なのか、判断がつかない。
「……キャバ嬢、向いてないですか?」
少しだけ、試すように聞いた。
男は、間を置いてから言った。
「向いてるよ。
だから、危ない」
その言い方が、妙に残った。
褒めてもいないし、落としてもいない。
「危ないのは、私ですか」
「君と、君を好きになりそうな人」
一瞬、心臓の音が大きくなる。
でも顔には出さない。
出したら負ける気がした。
「それ、営業妨害じゃないですか」
冗談めかして言うと、男は「そうかも」とだけ言った。
バックヤードで、別の女の子が私に言った。
「あの人さ、狙ってるでしょ」
私は首を振った。
「狙ってる人は、ああいう距離の取り方しない」
自分で言っておいて、少し笑いそうになった。
詳しいみたいな言い方だ。
帰り際、男は名刺を出さなかった。
連絡先も聞いてこなかった。
ただ、ドアの前で言った。
「無理しないで。
無理が得意なのは、もう分かってるから」
それは、客が言っていい言葉じゃない。
でも、怒る理由も見つからなかった。
帰る途中。
私は、スマホを見なかった。
通知が来ていないことを、確認したくなかった。
恋愛だと呼ぶには、静かすぎる。
でも、仕事と呼ぶには、残りすぎている。
そういう人が、ひとり増えただけ。
それだけのはずなのに。
次に会ったとき、
同じ距離でいられる自信は、
もうなかった。
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