テラーノベル
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怜央菜が笑いながら立ち上がると、部屋の空気が一段と冷たくなる。今までの囃し立てが「場」を作るなら、彼女の一挙手一投足は刃だった。口許に浮かぶあの笑みのせいで、俺の肌はぞくっとする。
「今日は特別メニューね」
彼女の声は甘くて、でも毒が混じっている。指先で俺の顎をつまみ、ゆっくりと顔を上げさせる。目と目がぶつかる一瞬、怜央菜の瞳に楽しげな冷たさが映るのが見えた。
「動きが鈍いと面白くないよ」
怜央菜の声が遠くで揺れる。友人たちが周りに固まる。腕組みをして、俺の痛む肩を眺めながら僅かに笑った。だが、その笑いよりも怜央菜の一言が効く。
「さあ、這いなさい」
命令は簡潔で、逆らう余地はない。俺は四つん這いになり、冷たいフローリングに手のひらをつく。爪の先が床目に引っかかり、痛みが走る。怜央菜は床に短く吐息をつき、指で俺の首筋を撫でるふりをしたあと、わざと指先の爪先で軽く掻いて、赤い線を引いた。皮膚を掠める痛みが鋭くて、でも深手ではない。しみじみとした嫌悪が胸に広がる。
「もっと早く這って。私たち、忙しいんだから」
彼女が舌打ちをする。友人の一人が携帯を掲げ、赤い録画ランプが光る。俺が動くたびにカメラが向けられ、周りの声が笑いに変わる。
這いずりながら、背中に重い箱を置かれる。重みが肩甲骨を押し下げ、呼吸が浅くなる。胴を支える筋が悲鳴を上げるけれど、止まれば叩かれる。止まって目を閉じれば、怜央菜の冷たい声が耳元で嘲る。
「弱音聞きたいな。泣くところ、見せてよ」
彼女の言葉に、手足が震える。涙は出したくない。出してしまえば、彼女らの歓声をもっと増やすだけだ。だから俺は唇を噛みしめ、ただ前へ前へと進む。だが、怜央菜は不満げに鼻を鳴らし、雑に俺の後頭部を掴んで床に押しつける。息が詰まり、頭が熱を持つ。
「声が小さい」
彼女は言って、俺の口元に薄い布を押し当てる。布越しに嗅ぐ彼女の香りは甘く、気持ち悪さだけが残る。布には何かの匂いが染みついていて、吐き気が込み上げる。友達が囃し立てる。俺は口を開けて息をするだけで精一杯だ。
「ほら、もっと見せて。恥ずかしいとこ、全部」
怜央菜が言うと、誰かがそっと俺の耳に息を吹きかける。寒気と一緒に、全身の力が抜ける。彼らは俺を物のように扱い、ひとつの娯楽として順番にいじる。手の甲を小さくつねられ、脇腹に軽く掌底を喰らうたび、痛みと羞恥が同時に湧き上がる。
俺がふと顔を上げると、怜央菜はカメラを覗き込みながら静かに笑った。
「顔、もっと曇らせて。そういう顔がいいの」
誰かが俺の髪をつかみ、頭を無理矢理上げさせる。怜央菜は近づき、低くささやくように言った。
「お前が嫌われてる理由、知ってる?」
彼女の声は甘いが、刃のように切れる。
「いるだけで空気が悪くなるってさ。ほら、みんなきれいに笑ってるのに、お前だけ邪魔なんだよ」
その言葉を聞くたび、身体の奥に冷たい崖ができる。俺は反論しようとしたが、口を押さえられ、言葉がのどに詰まる。代わりに怜央菜が掌で軽く頬を弾いた。痛みが鮮烈に蘇り、涙が堪えきれず滲む。瞬間、周囲の嘲笑が一斉に膨らんだ。
「いいわね、じゃあ罰ゲームね」
怜央菜は声を変えずにそう言い、指示を出した。友人が持ってきたのは氷を入れた小さなトレイだった。冷たさは鋭く、皮膚を凍らせる。氷片が手の甲や首筋に押し当てられると、表皮が引きつり、息が止まりそうになった。怜央菜は満足げに頷き、氷をいくつか俺のスネや手首に当てて回す。痛みの種類が変わるたび、心が細かく砕かれていく。
「見て、こうするともっと面白くなる」
彼女は一つの残酷な工夫を披露するたびに拍手を誘い、友人たちがそれに乗る。俺はただ、痛みに耐えながら這い続け、命じられた動作をこなす。自尊心なんて残っていない。自分を守る言葉も、反抗する気力も、微かに残る誇りも、全部削り取られていく。
ときどき怜央菜がふっと優しい口調で俺に話しかけることがある。
「正直になって楽になれば?」
その言葉は大嘘で、甘い檻だ。俺が素直になると、次の瞬間には別の形で痛めつけられるだけだと知っている。だが、それでも人の手が温かく感じられる瞬間に、俺は一瞬だけ揺れる。
時間の感覚が薄れていく。恐怖と恥と痛みが混ざり合い、世界は狭くなる。ただ怜央菜の声が大きくなったり、友人が笑い声を上げるたびに、俺は縮こまる。最後には、怜央菜が満足気に手を叩き、場を収める合図を出した。彼女の口元は満足の笑みでいっぱいだ。
友人たちが散ると、部屋に静けさが戻る。俺は床にへたり込み、震える手で顔を覆った。痛みは残り、唇は割れている。だがそれ以上に、怜央菜の言葉が何度も反芻される――「いるだけで邪魔」。胸の奥に刺さったその言葉が、夜になっても冷たく疼いている。
俺はゆっくりと息を吐いた。体は痛むけれど、どこかに残っている小さな反発心が寝てはいないのを感じる。怜央菜の背中がドアの向こうに小さく消えるのを見て、俺は最低限の力を振り絞って立ち上がった。痛みと屈辱を抱えながらも、俺はまだ自分の足で歩いている。
――それだけが、今の唯一の反抗だ。
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