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今すぐここから離れなければと、拳を握りしめて気持ちを奮い立たせる。
「お疲れ様です」
短く言って大木の前を小走りで通り抜けようとした。
ところが大木の手が伸びて来て、手首をつかまれた。
「逃げなくてもいいだろう？」
「離して下さい」
その手を振りほどこうとしたが、あっという間に大木の腕に捕らえられた。近くにあった休憩スペースらしき一角に向かって、引っ張られて行く。そこは三方が壁で囲まれていて、数か所に観葉植物が置かれていた。奥の方は通路側から見えにくそうだ。
あんな場所まで連れて行かれたらと思い、ぞっとした。逃げようともがくが、大木の力は強くてその腕から抜け出せない。せめて誰かが気づいてくれることを祈りつつ、床の上にこすりつけるようにしてパンプスを脱ぎ、通路側に向けて蹴り出した。私を逃がさないことに集中しているのか、大木に気づいた様子はない。ひとまず人目につきそうな位置まで飛ばせたことにほっとする。私は自分を励まして冷静な声を作り、大木に言った。
「いったいどうされたんですか。酔っていらっしゃるんですか？こんなところ、特に支店長や本部長たちに見られたら誤解されて、課長の立場が悪くなってしまいますよ」
こんなことを言っていないで、さっさと大声でも上げれば良かったのだと思う。けれどこの時の私はまだ、大木がすぐに冷静さを取り戻すだろうと思っていた。誰かが通ってもおかしくないはずのこんな場所で、さすがにおかしな真似はしないだろう、と。
大木は私の言葉に唇を歪めてふっと嗤いながら、奥まった壁際までさらに私を引っ張って行く。
その先はもうないという所で両肩を抑え込まれ、壁に押し付けられた。
「っ……」
私を見下ろしながら大木はくすくすと笑い、小声で言う。
「誰も来ないよ。今日はこのフロアを使っているのは我々だけだし、宴もたけなわっていう頃だからね。それに、誤解も何も、私は見られても構わないよ。うちの会社では社内恋愛なんて普通のことじゃないか。もしかしたら、みんな気を利かせてくれるかもしれない」
「離してください」
体を捻って逃げようとしたが、男の力には勝てない。
「君のことが好きなんだ。前に一度、あっさりとふられてしまったけどね。ねぇ、早瀬さん。最近になって、また一段と綺麗になったね。この前の新年会では何もないなんて否定してたけど、あんなの嘘だよね。あの男、高原のせいなんだろ？あいつと寝たのか？私とあいつ、何が違うっていうんだ」
大木の表情、目の色から、彼が冷静さを取り戻すことはないと悟る。誰か来ないかと祈るような思いで、床に転がったままの自分のパンプスに目をやった。
耳元に大木の息がかかり、ぞっとして身がすくむ。それと同時に五年前の出来事が蘇り、弱みを見せたくないと踏ん張っていた気持ちが崩れかけた。
「離してください……」
私の訴えは届かない。大木はその腕に力を込めて私の体を抱き締め、下半身を押しつけてきた。ブラウスの裾から差し入れたもう片方の手で私の背中をまさぐりながら、力づくに唇を塞いできた。
意識が遠のきそうになったが、なんとか踏みとどまった。もがきながら抵抗し、大木の唇に思いっきり歯を立てた。ぶつっと嫌な感触があった。
私から離れた大木は、この状況にそぐわない嬉しそうな顔をした。
「早瀬さんはやっぱり気が強いな」
くくっと笑いながら口元を拭った大木の手の甲には、血がついていた。ワイシャツの襟元にも赤いシミが見える。
その時鈍い足音が聞こえてきた。誰かが足早にやって来る。明らかに慌てていた。足音の人物のつぶやきが耳に入る。
「佳奈の靴……」
放ってあった私のパンプスに気がついたのは久美子だった。
大木もまた彼女に気がつき、私から目線を外す。
その隙に、私はふらつく足で大木の前から逃げた。喉の奥に張り付いていた声を振り絞り、久美子の名前を呼ぶ。それは弱々しかったが、彼女の耳に確かに届いた。
駆け寄ってきた久美子は、私の背の向こう側にいる大木とただならぬ私の様子を見て、何があったのか状況を察したようだった。
「佳奈に何をしたんですか」
「残念。見つかってしまったな」
大木は悪びれもせず、軽い口調で言う。
「何もしていないよ。具合が悪そうだったから、介抱してあげてたんだ」
「佳奈、口に血が……。いったい、何されたの」
久美子が乱れた私の髪を撫で、ハンカチで私の口元を拭う。
同僚の手にほっとした途端、体が小刻みに震え出す。私は崩れるようにその場に座り込んだ。
「佳奈っ」
「む、無理やり抱き締められて、背中触られて。キスも……」
「なんですって……！」
大木は肩をすくめた。
「でも、嫌じゃなかったんじゃないの。早瀬さん、逃げようとしなかったからね」
「ち、違いますっ。逃げられなかっただけです」
震え声で反論する私の言葉を大木は笑って流す。
「とにかく、少し話をしよう。色々と誤解があるようだからね。北山さんは先に戻って。私は後から早瀬さんと一緒に戻るから」
「冗談でしょう。このことは本部長たちに報告します」
「さて、信じてくれるだろうか」
「これまでのパワハラのことも全部話します」
「それくらいのことで、私をどうにかできるかな」
「っ……」
宗輔の声が飛んできたのは、久美子がさらに大木を睨みつけた時だった。
「佳奈！」
首を巡らせた先に、血相を変えて大股で近づいてくる宗輔の姿が見えた。目の前に立った彼をぼんやりとした目で見上げる。
「どうして……？まだ時間は……」
「早く着いたんだよ。北山さんが慌てた様子で出てくるのが遠目に見えて、それで嫌な予感がして……。怪我はないか」
訊ねながら、宗輔はジャケットを脱いで私に着せかける。
私ははっとしてジャケットの前をかき合わせ、乱れた服を隠した。
宗輔は私と久美子を背に立ち、厳しく険しい顔つきで大木に向き直った。
「大木さん、これはどういう状況ですか？まさか、早瀬さんに乱暴を？」
久美子が口を開き、声を押し殺すようにしながら宗輔に訴える。
「課長が、いえ、大木が早瀬に無理やり言い寄っていたようです。触られてキスまでされたって……。今までずっとパワハラな態度を取っていたんだから、早瀬が受け入れるはずがないんです。彼女、ずっと嫌がっていたんだから……」
「彼女を好きになったのは私の方が先なんだ」
大木は血走った目で宗輔をにらんだ。
「どっちが先とか後とか関係ない。それにあなたは、自分が好きなはずの人を傷つけた。彼女を好きだなんて言う資格はない」
宗輔はぴしゃりと言い、さらに低い声で続けた。
「北山さん、すぐに上の人呼んできて。できればそっとね。本当は警察を呼びたいところだけど、事を荒立ててこれ以上佳奈を傷つけたくはないから」
言い方は穏やかだったが、声の底に怒りが滲んでいるのが感じ取れた。
それから程なくして、本部長が久美子に先導されてやって来た。目の前の状況をすぐには飲み込めない様子で、目を瞬かせている。
「いったい何が……？あなたは確かマルヨシの」
「高原です。実は早瀬さんが、大木さんから乱暴されたようで」
本部長が息を飲んだ。
「えっ……」
本部長は宗輔の話を、信じられないという顔で聞いていた。しかし私の様子に加えて、久美子の証言、そして大木の口元とワイシャツの襟に残る血の跡を目にして、これが信じざるを得ない状況であると、ようやく飲み込んだようだった。同時に顔色を失う。
「大木君、どうしてそんな馬鹿なことを……」
「そこで集まって何をしているのかな？」
緊迫したその場の空気に似つかわしくない、穏やかな声が聞こえてきた。
「た、高原社長……」
本部長がうろたえる。まずい所を見られたと思ったのだろう。顔色がさらに悪くなった。
「北山さんと本部長さんが二人して出て行ったし、大木課長と早瀬さんもなかなか戻って来ないしで、何かあったのかと気になってしまってね。……おや、宗輔。迎えの時間にはまだ早いだろう」
私たちの顔を見回し、社長は即座に状況を察したらしい。
「佳奈さん、大丈夫か？」
気遣うように私に声をかけ、それから宗輔に言った。
「彼女を早く連れて帰って休ませてやりなさい。あと一時間もしないうちにパーティーも終わりだ。後のことは、こちらの本部長さんにお任せすれば、きっといいようにしてくれるだろうから。――そうですよね、本部長さん」
社長はわざとらしくにっこりと笑い、本部長の顔を見据えるようにじっと見つめる。
本部長の顔が引きつった。
「は、はい。もちろんです」
「あぁ、宗輔。私はタクシーで帰るから、あとは佳奈さんについていてやりなさい」
「もちろんそうするさ。それじゃあ、社長、後はよろしく頼む。……北山さん、ありがとう。お礼は後日改めてさせてください」
はじめは混乱していた久美子も、徐々に色々なことを察し始めたようだ。最後にはほっとした顔で宗輔に言った。
「……佳奈のこと、よろしくお願いします」
「えぇ、もちろん」
宗輔は床に転がったままだったパンプスの片方を拾い上げて、私の足下に置いた。
私は彼に支えられながら立ち上がり、それを履く。ふと目を上げた先では、本部長が腕を組んで大木を厳しい顔で見下ろしていた。大木の横顔が目に入り、つい今しがた受けた仕打ちのことが思い出されて身震いする。
「もう大丈夫だから」
宗輔は私の体を抱き寄せて、安心させるように、守るようにその腕にぎゅっと力を込めた。
その温かさと力強さ、優しい声に縋るように、私は彼の腕につかまって歩き出した。
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